早稲田大学虚竹会機関紙「たけのこ5号」復刻版 |
|---|
| ホーム | 熱海OB会@ | 熱海OB会A | 新橋OB会 | 「偲ぶ会」 |
| 寸又峡旅行 | 2006年新年会 | 2006年忘年会 | 北海道旅行 | 大隈会館懇親会 |
| 百周年記念演奏会 | 虚竹会の歴史 | たけのこ | リンク集 | 資料館 |
ホーム |
目次 |
1号 |
2号(欠) |
3号 |
4号 |
5号 |
5号復刻版 |
6号 |
号外 表 裏 |
2008年10月11日改訂
清水茂孝さんが、「たけのこ5号」の復刻版を Word で作成されました。 テキストから作成した html 版を下に置きました。 復刻版は、pdf ファイルにしました。 各項目の下をクリックすると、pdf ファイルにリンクします。 pdf ファイルを読むには、adobe reader が必要です。 下記のサイトから無料でダウンロードできますので、お試し下さい。http://www.adobe.co.jp/products/acrobat/readstep2.html
清水 宏祐
現代社会における文化環境は、ラジオ、テレビ、映画などの進歩発展につれ て増々多様になり、我々の興味を惹くものが身辺に渦を巻いており、感覚的に
学ぶ為の、手っとり早い手段は至る処にころがっています。しかし若い時代に 極めて大切な、心ゆくまで空想を走らせ、純理を追って思索をつき進めていく
態度はこのようなものからのみは培われません。
それを可能にしてくれるのは書物だと思います。読書は思考を手引きし、読 む者自身に思考を構成させてくれるのです。これからの社会の進展に即し、 文化を高めていく上に、我々にとって何よりも大切なことは、これら様々な 文化環境の中で、読書に対する態度を確立することではないかと思います。
巻頭言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清水 宏祐
あゝ虚竹会・・・・・・・・・・・・・・・・・・青 蓮 居 士・・・・ 1
ある出会い・・・・・・・・・・・・・・・平野 泰雄(一政1年)・・・・4
憲法問題の解答・・・・・・・・・・・・・金子 忠臣(一法2年)・・・・6
新役員発表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
ユーモアクラブ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・8
連載シリーズ 新連載小説
私と故郷(1)・・・・・・・・・・・・江藤 秀瑠(一政1年)・・・・ 9
特集 我がリーダースキャンプ代理参加の記
磯崎 熙(一政2年)・・・13
連載シリーズ 独白的随筆
Monologue(2)・・・・・・・ 清水 宏祐(一政3年)・・・17
編集後記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・K.S生
青蓮居士
体の曲線を極度とまでに言い得る程誇示した女性の姿が一人、二人と巷から消えていって目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる秋が、いつしか我々の周囲を押し包み始めた頃から、わが親愛なる虚竹会に驚くべき珍現象が持ちあがった。
すなわち異常とも思える程かってなき新入生が入会してきた為に、夏休み前であたかも芋を洗うが如き活況を呈していたかの有閑者たちの集える場所、学館二九号室がその往時の姿は今いずこ、ひょうひょうと吹き荒れる秋風の下に、僅か二、三人の一年生諸志があたかも空閨の寂びしさに耐えるが如くに、殺伐とした竹、尺八の音を響かせているだけなのである。一体、あの大勢の人間はどこに消せ、何をしているのであろうか?
これは話せば長いことながら書けばやっぱり長くなる。一語にして尽くせばすなわち「麻雀」がその主たる要因を為しているのである。これを説明する為には、話を夏休みの時点まで遡らねばならない。多分に手間のかかる仕事ではあるが、乗りかかった舟なれば、事ここに至っては已むお得ない。お終いまで面倒見るよ!
今は昔、上州の沼田に於いて狂化合宿と称するものが行なわれたのであるが、当時この合宿に参加した者の誰が、かくの如き今日の事態を予測し得たであろうか。皆、尺八に対する純なる情熱を、そして上達への悲願を胸に抱いて、いそいそと馳せ参じたものであろうと小生は考えたい。そして、そう考えぬことにはこれから先の話の持って行き様が無いのである。
ところが彼等がそこで見た現実は志と異って、或いは正確を期するならば、志に叶って、非常に素晴らしいものであった。つまり彼らは尺八ではなく、それ以外の要素すなわち麻雀とソフトボールに多大の成果を収めたのである。そして彼らが気付いた頃には、尺八そのものは既に主たる座からはずされて、非常に冷淡な扱いを受けるようになっていたのである。この点に関しては、ソ連の政権交替の時のような強引さや唐突さは全く見受けられず、実にスムーズに行なわれたものだと小生、今になって大いに感心している次第である。
かくして二学期が始まるや否や、時節到来とばかりに、彼らは合宿で鍛えた腕を、三十四種、百三十九枚の牌上に縦横無尽に発揮し始めたのである。二、三、四年生と虚竹会の中枢をなす連中が、中西御大の下に固く団結し、麻雀の為には万難を排して協力を惜しまなかった。これなどは自民党の役員達は大いに見習うべきである。必然的に部室は面子四人を集める為のデートの場としての意味を持つだけになり、後には数人の一年生諸志が「やっと部室が充分に使える」とばかりに、内心ひそかにほくそ笑んで、雀荘へと旅立っていく連中を感謝のまなざしで見送るようになった。
しかし仏の顔も三度までと云うが如く、はた又麻雀をやらない一年生諸志にとって唯一の活動の場たる部室が陽も未だ高き午后二時と言うのに既に錠が下りているという事態が生ずるに到って、彼等はこれらの事態を重視すると共に、自分達の考えが甘かったことに気付き、それを修正せざるを得ない必要に迫られたのである。いつしか雀荘へいそいそと出かけていく上級生達の後姿を見つめる彼らの目は、感謝のまなざしから、疑惑のまなこへと変化して行き、遂には蔑視となるに至った。
それというのもあれ程までに尺八に余念のなかったかの上級生達の尺八を吹く姿を部室に於て見かけるということは昨今では至難の技となっていたからである。全く今では彼等は尺八を吹くことはおろか、それに触わることすら珍らしくなっているのである。そして彼らの口からついて出る言葉は、あたかも薬の切れたペイ患者の如くに“麻雀”の一語に尽きたのである。
寝ては夢、醒めては現に牌の幻影を求めてさまよい歩くその姿は、あさましさを通り越して哀れみの感さえ一年生諸志に抱かせるようになった。
一体全体、何が彼らをそうさせるのか? 原因は多々あると思うが、結局は何かにすがりつきたかったのではなかろうか。それ程迄に現代の若者は万事に飢えている。そして麻雀はそのようなフラストレーションを一時的なりとも解消させるかの如き錯覚を与える処の単なる代替物にすぎなかったのでは?、、、。と考えるのは少々行き過ぎの観がしないでもないが、試験休みやら、オリンピック休みやら、とかく休みの為に折角のサークル活動が疎外され、日当りの悪い部室で暇を持て余し、青春のはけ口を求めてたむろしていた彼等の前に突然、救世主の如くに現れた麻雀に彼等がワラをもつかむ思いで飛びついたのも、所詮はむべないことだったのかも知れない。かの虚竹会名物の朝鮮碁や五目並べすらも完全に放逐せられてしまった現在、我々は最后に残されたコンパという手段を大切にしなければならない。
しかしそのコンパとても一年生諸志は沼田で痛めつけられた苦い経験の為に非常に冷淡な態度をとっているので、先の見通しは甚だ暗いものがある。
年一度の会友会も人員不足に悩み、先般行なわれた秋の早慶戦に於てもわが虚竹会のノボリの下に集まった者は、土、日ともに六、七人という寂しき状態。それで辛うじて樽仙まで行ってはみたものの、一年生わずか一人を含む七人の侍ではいくばくの事を為し得ようか。かの樽仙にても二階中央部を陣取ることはあたわずして、川原氏をして『ああ、かってはこの部屋の主流をなしていた虚竹会よ、今いづこ!』と慨嘆せしむる有様。挙句の果ては樽仙のお姐ちゃんにまで『今日はどうしてエンヤラヤをやらないの?元気出せよ、元気を!』と逆にハッパをかけられる始末。もうすぐ大学祭。それが済めば冬休みは駆け足でやって来る。ひとつその前に景気よくドン!とやりたいものだ。『何をやるのかって』そうさね、コンパに麻雀大会にソフトボール大会それに尺八も加えることにするか。
この文が運良く清水“編集長”に採択せられて“タケノコ五号”の一端を汚して諸君の目に入る頃には、ここに書いたことは単なる杞憂にすぎなくなっているかも知れない。又かくあって当然なのである。虚竹ムード安泰なりの確証を得る日の近きことを願って小生も筆を置くこととする。
(完)
平野 泰雄
私は、つい一月位前に発見した明治神宮の内苑に来ていた。樹木がおい繁り、小鳥の声までもする。その天空までもさえぎっている大木の葉影からは、一条の光線も見えなかった。間道の玉砂利だけが足音を刻み、十月にしては異常なまるで冬の訪れを思わせるような寒さであった。
樹木の根元におい茂っている笹の葉は、冷い風がよぎるたびに、音もなく震えた。冷たい枯葉の落ちた間道を、樹間を通してかすかにどんよりした曇り空が、私が歩くとちらちらと動いた。寒さのせいか人の姿も見えず、ひっそりとした道を、私は芝生の広場のある方へ折れた。そこは風があった。
今まで木の繁みにさえぎられて感ぜられなかったが、かなりの強さでそれは一層、寒さを感じさせた。広場には先客があった。近所の小学生の遠足らしく、皆白い運動ズボンをはいた子供たちであった。どんよりとした寒空の中に、白いトレパンは円陣を組み飛び跳ねていた。私は風を避けるべく下に降りて行った。
丁度そこは窪地になっており、風にも見放され、幾分寒さも違って感じられた。 私はコートの襟を立て、肘をついて横に
なった。
私はこんな所が好きであった。東京の真中に在りながら、まるで東京ではなかった。そこには自由があった。東京オリンピックのアルバイトをしていた時、初めてここを発見した時の驚きを今でもありありと思い出すことができる。
その時以来、何回となく訪れ、天気の良い日には清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んで、暖かな日射しに当っていたものだった。そんな日には女学生の一団が通ることもあった。私は寂びしい幸福を感じた。
その日は授業を途中で抜け出して来ていた。カバンから教科書をとり出し、級友達のことを考えた。栃木の田舎町出身のK(彼とは一緒にオリンピックのバイトをした)。大阪出身のM。私は彼らの世馴れた生活力や図々しさを別に羨やましく感じなかった。又自分がこうしていることを逃避であるとも考えなかった。二、三日前にも私は彼らと喫茶店に入りいろいろ話し合っていた。
Kは町長の息子であった。その時は私も将来の野望を揚々として談じた。私も内心将来は政治家にでもなって社会のために役に立とうと考えていた。そんな野望と、一人ひっそりと横になっている自分との関連を頭の中に浮かべた。私はかんなことを秋のせいにした。そういえば芝生も色褪せて白ばんでいるし、木の葉も赤くなって冷い風に舞っていた。私は田舎育ちの関係か生来、自然が好きであった。春夏秋冬、いずれも情緒を感じ、美というものを数知れぬ程、直感したが、とりわけ秋が一番好きであった。春は曙。夏は盛り、そして秋は充実した“サヨナラの季節”である。秋になると私は言い知れぬ寂びしさと、一人とり残されてゆくあきらめのような孤独を感じていた。
私は口笛を吹きだしていた。誰が作ったでもない即興の旋律である。私は即興で旋律を作る自分の才を内心自負していた。そして自分の吹きだすメロディーに私は自身聞き惚れていた。そうして私は寒い中にさっきの小学生達が帰ってしまった後も一時間ばかり居た。
その時であった。寒さにコートの襟をつかんだ時、木立の間道から一人の女学生が近づいて来るのを発見した。彼女は周囲の環境がそう見せるのか、うつむいて悩んでいる風であった。そしてその窪地に腰を下ろした。
私と彼女の出会いはこうして始まった。彼女はまだ高校生のようであった。私は知らず胸が動悸して来るのを感じた。私はきっかけを捜した。それは意外なところにあった。その時持っていた手帖にあった。「太陽が輝いている間に乾草を作れ」私はこれをもって彼女に話しかけた。
※ ※ ※
以後五日経って一通の手紙が来た。
『前略、今日はごちそう様でした。私こんなこと書きたくないんですけどお知らせしなくてはなりません。私ある事でもう外に出る事ができなくなりました。ですからあなたとのこれからのおつき合いはできません。私と会ったことはなかったことにして忘れて下さい(絶対に)。もうあなたとは会いたくありません。でも決してあなたのこと嫌いではありません。が好きでもありません。今日は何となくついて行っただけです。こんなこと、書くのは失礼ですが、、、両親から誤解を招くことは、私はいやなのです。はっきり言いますけどあなたの第一印象は、女の子たちはきっと嫌がると思います。今日、言ったこと考えてみて下さい。
初めての人にこんなこと悪いのですが、、、ゴメンナサイ、 サヨウナラ永遠に。』
私はこれを読んだ時、かなりの衝激を感じた。しかしいろいろ考えてみるにつれて、段々解ってきたのである。後日、私は彼女に手紙を出すつもりでいる。そして私は自分自身を信じているし、彼女を信じている。この先、この関係がどうなるにせよ、彼女が神宮の森に現れたことは貴重であった。そして又、私がそこへ行くことは確かだ。
(完)
金子 忠臣
あゝ、俺は何をしてきたのであろう。学問に身を入れて来た訳でなし、遊び歩いてきた訳でなし、尺八を吹まくってきた訳でもなし。ぶしょうなんだね。早稲田の門なき門をくぐらせて頂いて以来安堵の念と生まれついての性分とでがくっと気が抜けたのよ。それ以上のことは言えないでしょうよ。
こうやってぼさっとしている目の前に、米原子力潜水艦日本寄港反対のビラがちらつく。俺がこうしてぼうとしている間にも血を流し寄港を阻止しようとしている連中もいるんだっけ。全く。毛唐の足で皇国日本の地が踏みにじられれば、誰だって頭にくるってぇことよ。これを冷静に書くとすると憤慨に堪えないとすべき処だろう。ところが毛唐の潜水艦の寄港阻止運動をしている連中に棒でなぐりかからせているのは、大和精神を云々するガキなんだからなおさら頭にくるじゃないの。
この寄航阻止運動をよそに、地元の人間は寄航に賛成だとか。そりゃあ年間四十余億も金が落ちりゃあこの上ないと思うのは人情というものである。別に工業地帯もないのに、年間四十余億もの金が入るのは並み大抵のことではないのであろう。
その上二十数万人の人口をかかえていては、たとえ恥をしのんでもその金を落させねばならぬ。その為には寄航を賛成せねばならぬ。金が目当てなのだから、空母を中心とした大艦隊がこの原潜寄航によって、寄航しなくなるとするならば、賛成の現地の人間も原潜寄航反対となろう。何故ならば、空母の乗組員の数に比べて原潜のそれはその百分の一位だからである。
人数が少くなれば金が入らなくなるからである。周知のとうり、アメリカはドル防衛策として外国の固定基地を原潜にとって変わらそうとしているのであるから。日本に於ても多数の人数を要する空母中心の大艦隊のかわりに、人数が少なくてすむ原潜を寄航させる可能性がなきにしもあらずである。
金の為に身を売ること、売らせることは、かってあったであろうことは我が神国日本のみならず諸外国に於ても歴史的事実となっている。国土のみならず人そのものにおいても同様である。十六世紀のドイツの版画にある婦人従軍隊や「武器よさらば」の笑いを売る女たち等々から戦争の雰囲気のある所は身を売る例、売らせる例にとっても良い雰囲気なのであろうことが解る。
この避け難い雰囲気を残しつつ、昭和三十一年の法律百十八号の成立をみた。この法律は親切なようで不親切、お色気ありそでないのである。この法律の罰則規定の対象となるような女は家の貧しきが常である。しかしいくら貧しくともそう身を売ろうなどと考えるものは多くあるまい。そこで需要を満す為にとられる策が人身売買である。家出娘がとんでてころりころげた木の根っこ。このような個人の尊厳、公序良俗を無視したことが許されてはならぬという主旨でごぞんじ売春防止法という法律ができたことは提唱者の一人である婦人議員のテレビ放送で明きらかである。
しかしこの親切も売春の温床たる貧乏や戦争の雰囲気等々が取り除かれぬ以上不親切きわまりないのである。法律によって縛られる。しかしせざるを得ない。一体、あたいたちどうしたらいいの。この問題を一挙に解決する為には政府の社会政策、外交政策において一大変革を要求せねばなるまい。けだし、資本主義社会は貧乏人を生みすし、又いなければなり立たぬ。シベリアおろしのからっ風を防ぐには掛けぶとんがいるからである。このか細い外貨獲得特別攻撃隊が貴重な外貨を獲得し、横須賀二十万市民の経済を支えるのに一役かっている以上、かの女史も余り強くはでられなかったのであろう。ものの本質を見究めずに、この法律の成立を惜しむ男の声に目くじらを立てる、一見堅気の女の愚かさよ。
このかたぎの人たちはこの法律が売春そのものを禁止しようとしていると考えているのである。がさにあらず。四十条からなるこの法律の一条にもその禁止規定はないのである。ただ公衆にめだつ方法で引くとか引かせるとか情けを知っていて所場を提供するとかいうのを禁止しようとしているにすぎないのである。という話を聞いたことがある。だから体のどこを使って商売しても良いのに、あそこを使う商売だけを禁止する法律などと感違いするのは法を知らぬどすけべーというものだ。
古代のバビロンやエジプトに於ては、身分ある淑女を含む全女性が一生に一度神殿において礼拝者に身を委ねることを宗教的行為としていた。それが全女性の変りに寺院専属のダンサーが一手に引き受けることとなり報酬を取るようになった。これが売春のおこりであると言われている。
報酬を得て身を売ることが売春であるならば、昔親のため、家のため泣き泣き又は笑い笑い嫁に行ったという事実はいかなるものなのだろうか。ひとつ分析しましょう。
親の為、家の為と気ばってみても大抵は金の為だったのである。金の為に目をつぶることは正に売淫と言わざるをえない。婚姻あるいは妾契約と売春行為との区別は相手方が特定者であるか否かという点である。親の為、家の為嫁に行くと言っても相手方は親が決めたのである。恰も業者が売春婦に客をつけるが如く。御本尊は会ってみなければ解らぬいわば不特定の相手を性的対象として持つのである。こういう例が十中八、九だったのである。
親の言うことを素直に聞き入れることが帝国女性としての天分であり、孝女たるの最少の条件だったのである。「孝女、孝女といばりなさるな、どうせお前は売身女だ。」という都都逸があるとかないとか。
何を言っているのかわからなくなって来た。とにかく俺は女性の味方だ。無節制の荒淫、乱淫はきらいなのである。これは虚竹会の会風でもあろう。
(完)
|
||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江藤 秀瑠
「故郷はとほくにありて懐(おも)ふものそして悲しくうたうもの、、、」これは実に素晴らしいうたである。真実味が込められていて、故郷を持つ者万人の胸を打つに違いない。去った故郷を思うこと、これは本能ででもあるかのようだ。
「遠くにありて懐(おも)ふもの」私はこの部分が特に好きだ。
過去の姿を理想像として胸の中に止めておけとでもいうのだろうか。現実が理想像と大きく違っているため大きな失望を感じることはよく経験することだ。現に私は昨年の夏、昔住んでいた故郷を訪れて痛く失望を感じた。
父が教師であった関係で我家はしばしば引越しをしたそうだ。兄でも六回は覚えているというから、母は父と一緒になって十回位家を移っているのだろう。ここで書く故郷とは福岡県は粕屋郡に在るあるひなびた一農村である。
私にとってそこが記憶にある最初の場所であると同時に、数少ない父の記憶の多くが当所に住んでいる時に生まれたものである、という意味に於て大切なのだ。
話題が十年以上も昔のこの農村のこととなると、私と妹は特に熱心になりいつまでもつきなかった。そして常に最後には「あゝ、もう一度行きたい。随分あそこも変わっただろうね。」と言った。故郷は昔の姿のまゝであらまほしと願う一方、随分変わっただろうと期待する当りは自分の気持が理解できない。何度かこの村への訪問が計画されては中止された。
一泊もすれば充分ゆっくりできる距離ではあるが様々の都合により、暇と金と行く気分とが一致しなかったのだ。それが姉も結婚し妹も高校に入って一息ついた年でもあり、母が夏休み中で比較的落着ついていたので昨年の八月の初旬に、母と妹との三人でこの静かな農村を訪れた。
予想に反して村の様子は変わっていなかった。それどころか道端の石ころ一つ一つまでもが当時のままであるかのようだった。家や土塀、道端に立つ地蔵様などは十年前と同じ空気を吸っているかのようだった。唯、村の規模が変化していた。住んでいた家と鎮守の森のお宮との距離が短くなり、土塀の高さが抱いていたイメージより低くなり池までもが小さくなっていた。原因は勿論、村にあるのではない。母は昔の家主や近所の付き合いをしていた人、又米を売って貰った農婦らと再会できて心の底から楽しそうに、なつかしそうに話をしている。私は興味がないので、そこここと独りで歩き廻った。
違和感!何かが私の心としっくりしない。この池はこんなに小さなものであっては困るのだ。大勢で夕方まで遊んだこの広場にしても、こんなに狭いものでは都合が悪いのだ。私にとっては苦心してよじ昇った土塀はもっと今目の前にしている土塀よりは高いものであってほしかったのに。私を昔の思い出の陶酔へ導くのを阻める何かが喉につかえているような感じだった。昔ながらの家を見つけて喜びの気持もないではなかったが、到々私は裏切られた感情を抱いて帰った。
過去を回想する際、我々は自分をも過去のものとして、過去を過去の私を中心にして考えるのは当然であろう。然るに私は物理的にも精神的にもこの十年間に大きく変わっている筈である。それなのに現在村へ行ってスッーと何ら抵抗もなく一昔前の世界に立戻ることの方が奇妙だと言うべきであろう。ましてや記憶とはいっても秩序あるものでもなく、様々な体験がごちゃまぜになり混沌としながら形作られたものである。三才から六才まで過した間で、断片的な記憶であり又それが前後相反しているかもしれないのである。当時は当時、現在は現在と割切るべきなのであろう。一体、人間はいつからの体験を記憶として後へ残すことが可能なのだろうか?私は自分の例から考えて五才は確実に覚えていられると考えているが四才となると、、、自信がない。
とにかく十二年振りに故郷を訪れて失望を感じたがそれは勝手に一方的に私が造っていた理想と現実のギャップによるものであって、何ら過去の思い出を傷つける性質のものではなかった。否、村を再訪したことにより、ずれていた焦点が正確に合ったように、更に昔の思い出が生き生きと甦り、尚一層、鮮明な像を結んだのである。
◎ ◎
我家が住んでいたのは、或る大きな農家の庭にある馬小屋の横の二階だった。階下には大きな農器具等が所狭しと置かれていた。その二階を改良して貸家としていたが部屋がいくつあったかは覚えていない。その階段は急な勾配でうす暗いものだったが私にとっては因縁深いものである。
私が三才の時、姉が手を離した為、身体をまっすぐに伸ばした私はゴロゴロッと下まで落ちてしまったのだ。その時は激しく泣いただけで済んだのが夕方になるとぐったりして眠ってしまったという。そして姉が様子を見にゆくと口から泡を吹いているので大騒ぎになった。なんでも右か左、どちらか一方の手足をだらりとさせたまゝ眠りつづけているので近くの医者が呼ばれたが、よくあることで、これが有名な薮医者。しかもその薮すら不在で見習いのインターンが本や説明書を読み読み診たというから今から考えると全くゾッとするような話だ。
手足を痙攣させ意識が回復しないので、もう駄目だと母は本気で思ったそうだ。父も帰宅し徹夜で看病、翌朝、私が「お腹が空いた」と言った時のうれしかった気持は今でも忘れないというから、私は一度死んだようなものである。現在小さな禿としてこの事故は私の頭に残っている。
◎ ◎
−当時、風呂は混浴だった−虚竹会諸兄の喜びそうな話であるが事実は事実である。古い建物でうす暗く、東京の風呂屋などとは比較になるようなものではない。共同風呂と云い我家の右、三、四軒隣にあった。“共同”の名前が示すとおりに、各家が毎月一定の金を出し合って燃料代とし、各家が順番に日を決めて風呂をわかすのである。我家のような外来者(よそもの)にはその義務は課せられなく、大家の家人として扱われていた。共同で運営する処などいかにも日本的農村の特徴を示していると同時に、あの農村自体が貧困だったのだと思う。
私はほとんど父に連れられて風呂へ行った。父は必ず私を小脇に抱いて仰むけにして髪を洗ってくれた。常も二度洗うのだが、一度洗って又最初から洗いなおすことが子供の私には退屈でたまらなかったものである。又、風呂から出る際も何度も何度も上がり湯を掛けてくれた。当時、病いの既に再発気味だった父のことだから衛生には人一倍注意を払っていたのだろうか。
混浴と云うとeroticなことを連想しがちであるが、実際は決してそうではない。実際当時のsexに対する問題というか風紀等を考えてみても不可解なものである。若い娘や血気盛んな若者も一緒に入浴してたのかなどと考えてみても記憶がなく、私には四十、五十を過ぎた日焼けした農夫、農婦らが大きな声で屈託なく作物について、天候具合について叫び合う姿しか浮かんでこないのだ。第一その種の事故は起こらなかった。と云ってもこれは表面上のことだけかもしれないが、、、。とにかくこんなことは私にとってはどうでもいいことなのである。実情は今考えているものとは違ったものかもしれない。がも早や霞の中に没してしまった当時の出来事である。それらの中から特に強烈な印象を受けたものが今記憶として残っている。特に幼い頃の思い出はこんなものではなかろうか。私にとっては当時その村はそれ程に屈託のない安気(あんき)な生活を送っていたということを思い起こさせる思い出以外の何物でもない。
風呂について思い出となるともう一つの思い出すことがある。この村に一人の“うすのろ”が居た。人間はいい奴なのだろうがどことなくおかしいのであった。
彼は近くにある炭坑に務めていたが坑夫もやれば坑内の排水ポンプ係ででもあった。それだからして共同風呂のポンプの具合が悪いとなると必ず呼ばれて修理する所謂“重要な技術者”だった。夕方炭坑から全身まっ黒になって帰って来ると直接風呂へ。そして帰りは必ず素裸で帰って行った。父はよく「“褌”くらい着けて歩けばいいのに。」と自分のことでもあるかのように腹立たしそうに言っていたが、今から思うに教育者として誠に当然の怒りであったと思っている。父の怒りに関係なく彼は春から秋の終りまで、夕方になると少し前かがみになって手で前を押さえて我家の眼下をスタスタスタと歩いていた。人に会うと愛想よく挨拶を交して過ぎる、会う方も別になんとも思わなくなっているので平気なものである。赤い夕陽をいっぱいに浴びて歩く素裸のこの男の姿を今でもありありと思い浮かべることができる。この男は五年程前に交通事故で亡くなったとかで、昨年の夏村を訪れた時彼の家は立派な家に建て変わっていた。勤務中の事故だったのだ。
風呂については、その後、世の中が住みにくくなって、警察か保健所からか、“男女混浴罷成らぬ!”ということになって板の塀を湯舟の中につくり区切ったが、下の方は通じているし洗い場は元のまゝだし以前と大差ないものであった。
その後のこの風呂の変遷については知らないが、この農村の生活水準も上り各戸が風呂を持つようになったというから多分廃止されてしまっただろう。とにかく一事が万事こういう調子の時代でもあり土地柄でもあった。
(続く)
磯崎 煕
十月十三日(土)午后、清水幹事長より手紙で参加を要請さる。「何でも屋」の僕は目前の試験勉強も投げ捨てて参加を決意。郵便事情好転したのを知らず無理して速達にした。今回は二回目・場所は東京品川の郵政クラブ。第一回目も同じ場所だったらしい。
〔日時〕 十月十一日(日)午后二時
現地集合
十月十二日(月)正午解散
〔議題〕 第二学館問題について
規約検討委員会をふまえた今後の活動について
その他。
と案内状に出ているが参加資格の項の“幹事長あるいはそれに準ずる者一名”というのが気にかかった。
十月八日(木)この日から五輪休暇。にもかかわらず清水Aさんを部室にまで御足労願って予備知識を得た。何にも知らぬ一年坊主を伝統ある虚竹会の代表として出すことに幹事長は心配だろうと思う。説明を聞いて全て解かったような気がしていたが、自分自身何となく不安だった。しかし事がめんどうになれば「俺は一年だから」という言葉に頼ろうという安易でしかも消極的な考えが不安感を包む。
十月十一日(日)さあ、いよいよ当日がやって来た。午前中、高校時代のOB会に出た。午后もOGの中で近く結婚する人がいるんでその祝賀会兼総会を新宿の某所で開く予定。それにも出たかったが、リーキャンが待っている。午后一時に家を出れば定刻までに到着するだろうと考えていたが、実際に家を出たのが一時二十分。品川から京浜急行に乗りかえる。品川に着いたら二時二十分。凡そ会というものは、定刻より三十分遅くに始まる、という自分勝手な説を思い出しながら、心は急ぐ。
会場はすぐに知れたがこの辺は羽田に近いのでゴー音が耳やかましい。
執行部の手違いで四時三十分開始。家に食べ残して来たサンドウィッチが悔まれる。残念。開始までの二時間をどうするもんかと考えようとしたが、会場の入口で一緒になったサークル連合の人と近くのパチンコ店へ行った。四十分を要し百円を献金。ラーメン屋で腹ごしらえ。TVが東洋の魔女を撮している。
今ほどではないが多少の不安感がまだ残っている。でも何とかなるだろう。上空を時々ゴー音が通過する。先程まで結婚披露が行なわれていた部屋で会議が開始される。当郵政クラブは結婚式など各種宴会や宿泊施設のある旅館風の建物である。
四時三十五分自己紹介(名前と代表するサークル名だけ)出席者は三十名前後。ほとんど半数は常任委員か又はサークル代表と常任委員を兼任した者で占められている。 次いで常任委員長(主催者代表)の挨拶。
予定発表 4:30 − 7:00 規約問題
7:00 − 8:00 食事
8:00 − 10:00 学館問題
1.〔規約検討委員会〕
〔A.基礎〕
一. 公認団体の統合
二. サークルの自主的活動の自主確立
三. 予算請求権の獲得
〔B.成立過程〕
昨年、今年と引き続き問題となった「名簿」「継続願」提出が深刻化し大学側も学生の文化活動に注目するようになり、従来の規約では不備な点が多いのでそろそろ改めても良いとの態度である。学生側も今までは学生不在の規約を押しつけられていたのでは早稲田における真の文化運動は出来ぬ。この際規約を改正して自治権を獲得しようという気構えである。
〔C.構成〕
学生側十名(うち文連側七名サークル連合側三名)
大学側十名(サークルの会長)
・ 学生の会公認団体数九十七(文連加盟のサークル)
・ 非文連=サークル連合四十三(学生の会加盟サークル・学生の会未加盟サークル)
“学生の会”とは二学部以上にまたがり二十名をこえる学生によって組織される団体で、実績二ヶ年以上を必要とする。
学校側の承認したもの。会長が必要である。
“文連加盟”とは学生の会で一ヶ年以上実績があり、文連総会で承認されたサークル。
〔D.改正審議の方針〕
全十五条を六系統に分け
@ 設立と継続願いに関して(該当 条項一、二、三、十二条)
A 会長制に関して(四、五、六、 十三条)
B 届出、報告、承認制度に関して(三、 八、九、十、十一条)
C サークルに関する規制(七、十三条)
D 雑則
E 新条項
〔E.改正の態度〕
全早稲田大学のサークルに適用。(サークルの統合体を考慮)
〔F.改正の目標〕
サークルの環境整備、自治獲得をして文化活動の推進をはかる。
※ 規約について特に問題となった点
(会長制について)
◎ 会長の存在目的 − 社会的問題を起した時の責任者である。
◎ 社会的問題の解決のしかた − 果してどのような場合が社会的問題となるのか又その決定は誰が下すのか。(例えば文連)
◎ 責任の所在 − サークル自体で責任をとる自信ありとの発言(政経研究会だったと思う) その方法としてサークルの解散etc.
◎ 現規約では「サークルを新設する際会長が必要である」とされているが、現在サークルの会長のあり方はどうなのか(二、三サークルの説明あり)
古典ブロック系は会長よりも師範の方が活発に動いている。
政治・経済ブロック系では講師のような立場にあるサークルもある。
しかしほとんどのサークルでは会長の名前も顔も知らないでいる者が多いというのが現状である。
◎ 学生の会に会長不要の声あり。
◎ 会長の資格を教授とせず、学校外部の者をもってきても良いのではないかとの意見。
全般に堂々めぐりの討論で、はっきりした結論が出ないが、「結論は出さない」ことになった。(六時十分)
〔夕食〕
献立
サシミ、天婦羅(エビともう一品)、 吸物、めし(余分があったが全部に渡らず、半分づつ、それでも全員に渡らなかった。)
夕食后、参加費五百円徴収
◎ 会長の権限(監督権など)をはずし顧問のような型にしろとの提案。
会長制について議長団からこの問題は、各サークル討論して→各ブロック会議→検討委員会の順序を通してほしいとの要望がある。
次いでBC(プリント規約改正への道3参照)説明后Eのうち予算請求権獲得を新条項として付加しようとの意見あり。現在サークル関係の予算項目はなくて学生部の学館運営費の一部とされているとのこと。年間約百七十万円〜三百万円は必要、とすれば資金かせぎのダンスパーティーなどせずにすむとの説明。
予算請求権獲得の見通しは、との質問に対し現段階では見込みがないが長い目で観ていくとの方針を発表。
◎ 規約解釈権は大学側一方に任せず、必ず文連総会などではかるようにしろとの意見あり。 「サークル連合」から「規約検討委員会」へ。
2.〔学館問題〕
◎議長団見解 − 大学側は第二学館を八十周年事業の一部としか考えず、厚生施設の一環とみていない。
◎スローガン − あくまで学生自治のため闘う。
・管理運営権を学生の手に・・@
・生協を学館内に入れろ・・・A
・一サークル一部室制実現・・B
@ 現在の学館の管理運営組織は、下に示す如く一切学生とは関係していない。
学生部長−管理・運営 課長−学館主任−職員
A 業者の用地を買収した際、業者の生活権を前提にすることにより、生協の学館加入が不可能となる。
生協に対する学生、学校両者の見解相違
学生 − 学生生活に不可欠の一環 →学館加入当然。
学校 − 一営利業者
B 第二学館だけに終らず第三、四学館にも関連している。
(十時四十分終了)
リーキャン参加者の部屋割発表
部屋に入りコンパ(二級酒三升、つまみ)
就寝一時すぎ
十月十二日(月)
八時 起床(予定では七時)朝食
九時 会議再開
朝食献立 − 御飯、生玉子、チクワブの煮物、とうふみそ汁、 名称不明の酸っぱいもの。
〔学館問題について〕
@ 十月六日以前の状況説明
八十周年事業の一環としての第二学館設立に際し次のことが問題となっている。
◎五・二十二集会 − 公開質問状
管理運営準備委員会を発足決定。
◎十・六抗議集会 − 管理運営準備
委員会正式発足。
◎中央自治会復活要求。
A 十月六日の状況説明
◎抗議集会 − 五月二十二日以后の成果特になし。
◎第二回管理運営準備委員会
用地買収 − 業者との契約内容
生協問題との関連
B 十月六日以后、今后の活動方針の説明
◎一サークル一部室制 − サークル活動のシンボルである。“サークル”を学校側がどう考えるか、十年、二十年後を展望する対策が必要。
◎生協について − 業者との契約内容公開を迫り、全学的共闘にもってゆく。
(生協自身の意志)学館に入ったらサークル活動の物質面を援助する、例えば一括購入、金銭的援助、共催etc.
部室割当ては学生の手で(ex.文連)
C 今後の課題
◎管理運営委員会 − 管理運営についての方法(ex.管理運営分離の可否)
(五分休憩)
〔一般討議〕
◎ブロックの現状発表
政治、経済、古典芸能、音楽、言語、報道、文芸、視聴覚。
◎ブロックの機能が不明確。
◎来年のブロック活動の方向
各サークル話合いの場をつくることが必要である。
(十二時終了)
昼食 − カツ丼、タクワン。
− 以上 −
清水 宏祐
善という言葉を辞書に求めると「道徳の理想」と記るされている。昔の概念を規定することは仲々、容易なことではない。常識的に無難な説をとれば画一の謗りを免れぬし、常識以上の本性をもって捉えたと思われる時には暫々、独断論に堕し、自己に対し甘えた意見になりやすいのである。
善という言葉が用いられる時、その反対側では悪の意識が考えられている。しかし善とか悪と言ってもそれは所詮相対的関係を言っているのにすぎないのである。果して人を善人とか悪人とか区別することができるであろうか。倫理的に考えれば、人が人を審くということなどとうていできる筋合いのものではないのである。
西欧の思想が全て二元的世界というものを根底においているのに対し、東洋では善とか悪とかいうものを超えた世界(無心とか無分別の世界といわれている)を思想の根底にしているのである。仏教では我執を捨てることによって、(厳密に言えば煩悩を捨てることはできない訳で、つまり煩悩にとらわれない境地=解脱ということになるのであるが)二元的世界、常識、分別の世界から無心の世界に超越することができると説いている。
我々の世界にあって我々の存在は甚しく制約を受けている。個人にとって第三者の思惑など全くどうでもいい筈であるのに、世間体を心配しながら生きていかねばならぬ破目に陥らされている。つまり存在を自覚していない故に。
こういう処から出てくる善とか悪とかいう判断はつまらないものである。無心の世界に逍遥することにこそ人生の第一義とされねばならないのである。そういう意味で私は古代ギリシャ人たちの何物にもとらわれず、おおらかでくったくのない生活を憧憬せずにはいられない。道徳的人間とか善人という言葉には西洋的臭気が感じられてならないである。二元的世界に低迷している間は、真理を悟ることはできないのである。実存(真実の存在)ということがこの時、我々の関心事となる。善ということをテーマにしていたのであるから、実存については他の機会に譲るとして、倫理的観点から今すこしこの問題を掘り下げてみたい。
己れを煩悩熾盛、罪悪深重のどうしようもない人間であると思う時、つまり罪の意識に悩む時人は暫々宗教心に目覚めるのである。親鸞をその典型にあげることができよう。人間の存在のあり方そのものが救われえぬようにされているのであるから、救われたいと希うこと自体がいかに傲慢なことであるか、を説いている。
親鸞が単純に救いを求めたのか、上述した如く無に徹したのか未だ勉強が足らず、どちらとも確信できないのでこのことについてはこれ以上触れないことにする。罪の自覚が人間を宗教に近付けるのはキリスト教においても同様である。が、祈りによって実際に現世利益を神に求めていることが仏教とは違っている。キリスト教の神は超越神であるのに対し、仏教の仏は内在神である。救いの対象についてもキリスト教では人間だけであるのに対し、仏教では遍く一切衆生が救われる筈のものであるとしている。
(一切衆生悉有仏性。)
通俗的善悪の基準とは何であろうか。まず第一に人の行為に対する道徳的判断があげられよう。第二に当事者が善悪を意識することによってなされる場合があると思う。次に第三番目として己れを煩悩(宿業)のかたまりとみて悪人だと考えるような倫理的基準。最后に鎌倉時代などにおいては支配階級は善人であり被支配階級は悪人であるとする考えがあったが、このような階級差別による基準をあげることができる。一番目と二番目の基準がいわゆる常識的判断ではなかろうか。自己の良心に対して厳びしい人は第三番目の基準を有しているので自から宗教の門に接近しているといえる。
いったん自分が善人と思いこんでしまうと罪の自覚とは縁が切れ鼻もちならぬ傲慢者になることが多いのである。こういう人こそ救われないのだが、彼らはそのことを認識してはいない、それ故に未だ救われる可能性を残している訳であるが。
独白のつもりで書き下しているので、読者諸氏にはさぞかし理解に苦しまれる処もあったかと思うがお許しを請いひとまずこの項を終えようと思う。
恋愛は真に実在的なものである。何物にも代替しえぬ強烈なものをうちに含んでいる。純粋に愛し、愛されることは難かしい。しかしそのような愛し方、愛され方が全く存在せぬとは頭底考えられぬことである。恋愛は、真摯な純情も茶化されてしまうような日常茶飯事とは絶対に違うのである。俗に言う“恋愛ごっこ”は真の恋愛を冒.する以外の何物でもない。苟も青年が恋をする時、そのような妥協的態度であってはならぬと思う。恋愛に余り重大な意義を付することは、人生を窮屈なものにしてしまうのではないか、という疑問も出よう。しかし愛は超倫理の世界に存在するのであるから何をか言わんやである。倫理の根本的命題は善である、といって書かれた西田幾太郎氏の『善の研究』はすばらしい本であるが、その中の一節に次のような文章がある。
愛は実在の本体を捕捉する力である。 ものの最も深き知識である。分析推論の知識はものの表面的知識であって実在そのものを.むことはできない。ただ愛によりてのみこれをよくすることができる。愛とは知の極点である。
(「善の研究」−知と愛)
氏も言われている如く、愛はものの本質を知る最も深き知識である。故に誰からも愛を分ち与えてもらえぬ者は良く生きることはできない。心は慌みいじけてしまうばかりである。愛をないがしろにする者は自からを滅ぼすことになるのである。 (続く)
「灯火親しむ秋来たる、、、。我が虚竹会の精神活動も増々その冴えを見せてくる頃となりました、云々」の掲示を出したのが九月の中頃。発行が今頃まで遅れてしまったこと、お許しを願います。
編集子としては、これでも極力精を出してやったつもりですが出来上りを見ると仲々満足できるものではありません。
この経験を生かし次号では更に充実したものを出したいと思っています。
( K.S生 )
|
||||||||||||
| ホーム | 熱海OB会@ | 熱海OB会A | 新橋OB会 | 「偲ぶ会」 |
| 寸又峡旅行 | 2006年新年会 | 2006年忘年会 | 北海道旅行 | 大隈会館懇親会 |
| 百周年記念演奏会 | 虚竹会の歴史 | たけのこ | リンク集 | 資料館 |
| ご意見やご感想をお待ちします。 |