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『大作戦日誌』20040601-20040630

20040601/001241
『どうせ川のほとり』
苦悩しても仕方が無いので、飯を食う。
テントの支柱を忘れてきた身といえども、心に柱が在ればそれもまた良し。

いずれにせよ、自らの労働で得た金銭で得た食料。
心を腐らせて、食料まで腐らせてはなんにもならぬ。

木津川は、思っていたよりも透明度が無い。
淀川と合流して、大阪へと流れてゆく。
桂川・宇治川・木津川が淀川3大支流という事だが、水量も思っていたよりも少ない。
内陸部という事もあって、これで普通なのかも知れない。

部分だけを見ると水量が少なくても、
流域の様々な尾根から注ぎ足された水を集めている現実が在る。

川というものは、存在し続ける事にこそ意義が在るのだという事。
川のそばで寝泊まりすると、いろいろ伝わった気になるのが面白い。

20040602/001242
『特殊撮影された幻影都市』
自分の体よりも大きい岩に座って、文庫本を読む。
今回の様に、急がないキャンプには読書が適応し、心地よい。

実相寺昭雄 著『ウルトラマンの東京』
以前に刊行されていたものを部分改訂して、ちくま文庫から2003年に出たもの。
いろんな偶然が重なって知人から頂いた1冊だったので、
できれば旅の中で読もうと画策していた。

『ウルトラマン』などの円谷特撮作品の異色作を何作も監督されてきた著者の名は、
いつの間にやら記憶内へと普通に刻印されている。

安逸に崇拝するのではなく、ただ「ありがとうございました」は言いたいと思える創作者だ。

『ウルトラマンの東京』は、実相寺監督が、かつてのロケ現場を再訪するという構成の随想。
撮影当時のエピソードが多く綴られているにも関わらず、何か適度な距離感が在るのが面白い。

商売としてウルトラ作品ファンに良くも悪くも媚びるのなら、もっと書ける筈。
だが、この本の基本姿勢は、特撮作品というフィルターを通した東京への郷愁を基軸とする。
そう、この本に於ける特撮作品の役割は、タイムトンネルなのだ。

加えて、読者としての自分には、東京で暮らした過去が無い。
旅した事は幾度か在っても、日々を生活して過ごしたという郷愁を持っては居ない。
そして、記された過去の東京は決して触れる事ができぬ事も知っている。
そして、現在の東京もまた変転流転している事もまた知っている。

それ故に・・・特撮作品と、触れられぬ町という、多重の虚構を読み味わう事になる。

それは、あの頃に見た特撮作品の背景に広がる虚構の町並に・・・
満ちて広がっていたかもしれない物事に対する郷愁を覗き見する様な感覚だ。

旅という非日常の中で味わうに似合う本は、世の中に多種多様に在る。
だが、料理同様、空間や心情に適合する味を持つ1冊を、
的確なタイミングで読んでいるのだという感覚は、本読み冥利につきる。

20040603/001243
『カサギギ』
キャンプ客の食料を狙ってか、カラスが群れ成してくる。
川と陸の境界で、踊る様に群れる。

体色のせいでヒトには嫌われがちだが、観察すれば只の鳥なのだと、不意に解る。
鳥なりに賢く、鳥なりに鈍臭く、鳥なりに単純だ。
世界の物事は、擬人化しない視点こそが面白い。

小学校の時、授業で神社の写生に行った事が在る。
体力勝負キャラな同級生が、軽い気分で全力投球した石ころがハトに命中。
片翼の折れたハト、教師の叱責、引き出された筈の自己反省・・・
どれに対して、彼は泣いていたのか解らない。
そもそも、あのハトがどうなったのかさえ・・・解らないのだ。

世界は、不意なもので満ちている。
因果律に依る物事でも、
原因や予兆や前段階を感じ取る想像力や解析力が無ければ無い程に、不意となる。

志賀直哉は『城の崎にて』の中で、この“不意”という感覚を記している。
それゆえに、文学史に残っているのだろう。
単純ゆえに、いざ文章化するとなると困難な領域が、文列の中に繊細塗布された作品だと思う。
 

眼前のカラスは、今こうして岩の上に座るヒトが石ころを手にしているかどうか不可知。
投げるか否かは、更に不可知。
ヒトの知性と、トリの知性。その格差ゆえに、トリの日々は濃厚な不意をまとう。

予感し解析できるゆえに、ヒトは、萎縮や慢心や依存や誤解などを・・・
掻き分けて“不意”を見なければならない時を持つ。

20040604/001244
『走れバンブー』
ヒトは、夜露をしのぐためにも知性を培ってきた。
テント本体は、在る。寝袋は、在る。
ペグは、無い。支柱も、無い。

遊びに来たのだから、なんとか楽しめないかと画策。
何か使えるものを周囲に探す・・・という基本から始める。

手頃な流木が、見つからない。
が、1m程の竹棒を発見。しかも2本。ダブルバンブー。幸先よし。

最大幅60cm程の、変則直方体風味な岩も発見。
腰を痛めない様に、運搬。ヒト1人を背負う方が楽か?

この竹2本と岩と知恵と勇気で、快適なテントを大地に屹立せしめる野望 !

だが、15分後に駆け寄ってきた小学校低学年兄弟、が。
「すみません、その竹、いただけませんか?」

うむ。その言動、紳士なり。
快諾。
チャンバラをしつつ駆けてゆく兄弟を見送る。
さらばバンブー。

まぁ、岩が在れば。なんとかなるだろう。

コンロを出して、コーヒーなど沸かしてみる。
青いガス炎を見ていると、
「あの竹でフィラメントなど作ってみるべきだったか?」とも思う。

20040605/001245
『富士山より高い怪獣』
丁度、夕陽が山の向こうにゆく。
それを見るのに、良い角度。

“高層建築が増大した現代の街並には、超人も怪獣も活躍し難いだろう”
そういう感慨の文章が、
先刻に読んでいた『ウルトラマンの東京』の前文に、書かれてある。

それはそれで、真実だろう。
高層建築群よりも小さくては、畏怖としての怪獣意義が薄くなる。
怪獣が巨大すぎても、人間と絡む演出が限られてくる。

無論、打開策は在る。
近年の特撮と番組や映画の様に、カット割りを多くしたりCG合成で空間構成を操作すれはいい。
アニメなら、より恣意的に画面を構成していけるだろう。
要は、演出だ。

人間は、空間や距離感が物理法則に即さない騙し絵の様な画面でも、許容してしまう。
そしてそれが上手く構成されていればいる程に、騙し絵の方が視覚快楽を与えてくれる。

そこまで思考して、それでも・・・
やはり怪獣は“昭和”の匂いの中にこそ、現れてほしいという願望を再認する。

20040606/001246
『怪彗星ツィオク』
世界には、怪獣よりも怖いものが溢れている。
かつて、怪獣は、様々な恐怖や暴力の象徴でもあった。
だが今や、象徴化されるよりも前に、原型“そのもの”が溢れている。

怪獣よりも怖いものを沢山知ってしまった今では、比喩よりも象徴よりも現実が見える。

無論、“昔は良かった”という論旨ではない。
犯罪は太古から在ったのだし、この国も60年前は戦争をしていたのだし、
戦国時代とよばれ内乱で満ちあふれていた時代も遠すぎる過去ではない。

“良かった”時代など、ソフトフォーカスされた郷愁の中に在るものだ。
日々、高齢な方々と接していれば、嫌でも染みてくる。

虚構は、現実を浸食する。
郷愁もまた、今を見失わせる。

郷愁は、確実に取捨選択された美化演出・・・つまりは、虚構を含むからだ。

郷愁に、何処か後ろめたい切なさを感じるのは、
今その眼前から意識をズラしているという負い目を、無視しきれていないからではないのか?

だとしたら、郷愁もまた、一種の怪獣である。

20040607/001247
『酒樽怪獣ワインドリンカー』
もしも怪獣が出るのなら、
遠くの山の稜線に小さな顔を出すのではなく、知らない大都会に出た事が伝わるのではなく、
あの近場の鉄橋の向こう側から来てくれないものか?

それは、怪獣を通して比喩された何かを期待するのではなく、
郷愁を誘因する幻想としての期待思考だ。

かつて怪獣は、
いつ行けるかも解らない遠い町に現れていた。
東京が怪獣に壊滅させられていても、東京に行った事の無い身には虚構にも似た町。
それは多重の虚構性の中で、多重に虚構であるからこその心地よさを持っていた。

オトナと呼ばれる歳になっても、
そういう多重虚構思考を言語化するだけではなく、認識身体化し損なっていた部分が在ったのだけれど。

まぁ、それは、負けオタクな思考成分とも言えるだろう。
  
それでも・・・
現在放送中の『ウルトラQ ダークファンタジー』にも、
『世にも奇妙な物語』における出来の悪い回程度の感慨しか沸かず。
その理由を思案すれば、“画像が明瞭すぎる”とか“ウルトラQと名乗る意義を感じない”とか、
“怪獣がロクに出ない”とかトカなトコロに思い至る。

つまるところ、
“モノクローム”とか“不鮮明な画像”とか、
“行った事の無い東京”とか“自分が生まれる前の風景”とか・・・
多重多層に内在している郷愁が、虚構を芳醇に熟成させている事に、血肉で再確認する。

ワイン同様、味わうべきタイミングが在るのだろう。
容器である自分が、腐っていなければ。

20040608/001248
『虚構少年団』
虚構が心地よいのと同様に、郷愁は心地よい。
郷愁が心地よいのと同様に、虚構は心地よい。

それらは確実に、現実現在から遊離した成分を内包しているからだ。

だからこそ、日常と連続した時空間でのみ虚構に浸っていては現実を損なう。

それは、怖い。
自分にとっては、それが、怖い。

旅先で、郷愁と不意に逢うのは、奇妙な安心感が在る。
そこは既に非日常であり、現実でありながら虚構性をも何処かに内包している。

その先に在るのは、日常への帰還であり現実の再獲得だ。
戻るべき日常が在り、獲得した現実が待っているからこそ、恐れずに知らない道を行ける。

それは、楽しい事だ。

20040269/001249
『インターチョップは空っぽの洞窟』
また、旅先でこそ濃く感じる気配も在る。
郷愁でも逃避でも挑戦でもなく、ただ無風にも似た空っぽ。

怪獣どころか、何も無い。

過去に引き返してから、
つまりは、過去方向に助走してから現実への帰還。
そして、虚構方向にさえ助走無く、ただ何も無い空っぽからの帰還。

両方を、身構える事なく染み込ませる事のできる旅が在るのなら、
それは幸福だろう。
  

20040610/001250
『先夜見倶楽部』
とろりとろりと夕陽はゆく。
そろそろ、寝床を確保せねばなるまい。

笠置キャンプ場において、車同伴でない身の自分。
そんな理由で、1番水辺近くで眠る身になるのかと思っていたものの・・・
黄昏光が未だ在る中、水際に向かって突進してゆく荒地走行車登場。

今年前半の冬期、淀川にて河原走行を満喫した家族連れ荒地走行車が・・・
「川の水で車をキレイにしよう ! 」と思い立って、結果、水中で立ち往生した事故を思い出す。
摂氏4度の川水から、救出されたそうだが。

今回の車は、なんとか水際で停車。
かなりギリギリな地点で、テントを張り始めた模様。
自己責任という言葉は、想像力の無いヤカラには文字通り“想像できない”のだろう。

どんな事象でも、安全確保は未来予測の延長上に在る。
原因と結果を明確にリストアップできる程、人生の因果律は単純ではないが。

それでも、喪失も獲得も未来から巡り来るものだ。
過去に検討を求めても、結局は未来方向へ思考移行する必要が在るのが面白い。

20040611/001251
『空間欲場X』
岩を見て、大きさが自分の胴体ぐらいだと思う。
それを柱代わりにして、テントを立てる。
 
ドーム状に建て上げる訳にはいかないが、寝るだけの内部空間を確保。
1人用の非常用簡易テントなツェルトで寝るのは、こういう感覚か?

ザックも補助柱として使用したので、意外に窮屈さは感じない。
これなら、夏場用にメッシュ多用なツェルトを買うのも良いかなどと思えてくる。

自己を覆い、夜露をしのげる空間に潜り込んだだけで、奇妙な安心感が在る。
母胎回帰まで思考展開しなくても、
安全が表層的にでも確保できたという意識からの安心感だろう。

座って半畳、寝て一畳。
安上がりな空間消費だ。
だが、それは、購買欲や所有欲の染み込んだ日常生活から離れた旅泊だからだろう。
 
欲望は、広大空間を要求する。
旅でも日常でも。

それなのに、持て余してしまう空間や所有物の何と多い事か。

20040612/001252
『小粋なアノコはプチ灯台』
安全確保という点から思考展開すれば・・・
今、こうして扁平なテントに自己空間を確保している身。
可能性の世界では・・・
想像力の無いヤカラが、
深夜や早朝に車で河原走行を想像力も注意力も無く望む可能性も在る。
“ぶちっ”と踏まれたら、ひとたまりも無い。

そしてそれは、そういう可能性を想像しきれなかった自分の責任でもあるのだ。

川の大増水が、あるかも知れない。
飛行機が、落ちてくるかも知れない。
鉄橋が、爆破されるかも知れない。
怪獣が、来るかも知れない。

可能性の世界に於いて、誰の人生もが頼りない。
想像力が未熟な範囲において及ばぬ範囲において、全ては不意なものを含んでいる。

誰もが、自己範囲で、自分を納得させ安心させ誤摩化して眠るしか無い。

まぁ、毎度の事なので、震えては眠らない。

LEDライトの白い光で、創作小説の走り書きを手帳に記す。
明かりを消して、外に出る。
視細胞が闇に慣れ、星の光を受けるのを待つ。
またテントに戻り、今夜は灯台の様にライトを吊るして、眠る。

20040613/001253
『背後の円/眼前の線』
キャンプ場を早朝暴走する車がいるかどうかは、予測不可。
それを恐れるとかよりも、せっかくのテント泊。
夜明けぐらいは、体感しておいて損は無い。

午前4時起床。だらだらしつつ、4時半までにテントからするりと出る。
山の向こうから、いつの間にか夜が明けてゆく様な立地条件。
あまり早起きに必然性は無いのだけれど、起きてしまったものは仕方が無い。

デカい岩に座り、こんな時しか自分で湧かさないコーヒーをチビチビと。

山の向こうに湧き出る、朝陽の先走り光。

これで良し。
あとはもう、山の稜線から太陽が見える事には、空は既に昼色。

振り返れば、先刻まで居たテント。
なんとまぁ、扁平で珍妙で矮小な事か。

あれっぽっちの空間で、安心も得心も出来ていたという事。

それでもそれを情けながったりしても、
自分の過ぎた時間に蹴りを入れられる訳でも、後ろ向きにクルクルしても得は無し。

とっととテントを畳んで、先にゆく。

20040614/001254
『山寺へ行け山寺へ』
 
笠置キャンプ場での寝泊まりだけでは、勿体ない。
笠置山に登る事にする。
駅前通りを真っすぐ歩いて右折。登山道の入口は、すぐ見つかった。
車での登坂が可能な新道と、徒歩専用の旧道に分かれている。
当然の如く旧登山道を登るが、いきなり結構な急坂だ。

たいした気温でもなかったが、喉奥の上の方がエエ感じに乾く。
この登坂だけで、笠置の町並みが不意に、見える。

まだ上に道は在るし、登った高さもたいしたものではない。
ちゅうぶらりんて゛はあるが、まだ自分が“途中”に居ると感じられるのは面白い。

ちゅうぶらりんに慣れきる前に動かねばなら〜ぬという、自家製の単純な緊張感。

身構える事が先行する自己満足の為なテツガクというよりも、単純な感情。
振り返った過去を脚色追憶した場合はともかく、道を歩いている時はそういうものか。
 

20040615/001255
『幻想は紅葉の頃に』
笠置山は、紅葉でも有名。
誰も居ない山道をゆく。紅葉の時期なら、もっと人影も鮮やかな葉色も在るのだろう。
 
午前6時。ひとりでゆく山道は心地よい静けさ。
自分が土を踏む足音と、風が樹々を抜ける音。
上にも下にも展望の少ない道だが、それ故に自分自身の移動自覚が増す。

知人の、ハイキング趣味な人妻グループによると、
反対側の柳生の里方面から登るのもオススメとの事。
そのうち、歩きに行こう。

今回は、山頂部の笠置寺への到達が目標。
柳生方面への分岐路で、その向こうに続く道を見るだけ見る。
見通しは良くないので、歩かないと結局は見えない。
 
「マッチョはいりませんか? マッチョはいりませんか?」

こんな時に幻聴が生じ易い気もするのだが、本物の音にこそ風情が在る。

20040616/001256
『キャット・ウォーカー』
不意に、民家や旅館が視界に。
見上げれば、山寺の山門。
 
門をくぐれば、思ったよりも平地が広がっていて休息気分。
登ってくる途中でボーッとした時間も過ごしたのだが、それでも1時間かからず到達。

先に進むには、拝観料300円が必要。
午前7時過ぎ、人影は見えないままだが、料金箱は発見。納入。
礼節を忘れて拝観しても、仁義に反する。
結果的に拝観料以上のものを拝見できたという、お得感満喫。
 
この寺に、いずこからか来て住み着き、長年親しまれて天寿をまっとうした猫。
その猫塚に挨拶して、参道を進む。

20040617/001257
『千年ミッチー』
千年は遠く、千三百年は更に遠い。
笠置山は、日本史において歴史転機の舞台となった事でも、名を知られている。

それ以前においても、修験者の行場として山頂部の周回道は在ったらしい。
現代においてはハイキングコースとして気楽に歩けるものの、
道の横に待ち受ける深い斜面に、行場としての厳しさを感じる事は出来る。
此処に限らず、
山道という場所は、踏み外したら命に関わる斜面と重力加速度が待ち受けている。
ただ、それを認識しない者にとっては、実にあっけらかんと在る為に見え難いだけだ。
 
現在のハイキングコースでは、アップダウンもそれ程ではない。
だが、かつての修験者が駆け抜けたであろう斜面を想像する事はできる。

道を歩きながら、かつて同じ場所を駆け抜けた者の命に思いを馳せるのも興味深い。

20040618/001258
『わんぱく大組木くむくむ』
周回コースをゆくと、本堂である正月堂が視界に入る。
東大寺建立の用材を木津川を使って流して運搬できるよう、雨乞いの儀式が行われた記録が在り、
それが現在において東大寺二月堂で執り行われている“お水取り”の起源と言われている。
 
正月堂は、斜面に建てられている。
その為、組み木の基礎が結構な範囲で在り、道から覗けるのが面白い。

この様な歩行困難であった地において建材を製材し、建築成功に至ったエネルギー。
それを“信仰心”と一言で片付けて得心してしまうのは、勿体ない気がする。

関わった人間は、決して1人ではないのだ。

為政者や信仰者や無宗教者や設計者や大工や炊事係や通りすがりの者等々も含めて、
様々な人々の時間を思考した方が、礼儀にかなっている。

20040619/001259
『謎のユーホーサイン』
人間が活動域にしてきた土地は、この国の大半を占める。
歴史を振り返れば、
大枠としての過去像を想像できる記録群には、多くの地で容易に辿り着く事が出来る。

過去の政治背景を知る事も面白いが、
過去建築における当時の誰かが書いたラクガキ等さえも報道されるのは、
我々の中に“等身大の過去”を体感したいという方向性が在るからなのではないか?

まぁ、ラクガキといっても、
他人の家や公共物や文化財に、無神経にラクガキする様な無作法や矮小精神と、
比べるべきではないが。

郷愁やロマンチシズムを喚起せしめる為には、
万人向けの確固たる基盤を認識した上で、突出した特別要素を混入する手段が高効率だと思う。
特殊すぎる部品や無思考品だけを繰り出すだけでは、時を乗り越えられない。
デリカシーの無い部品は、千年を保たれても下ネタのままだ。

20040620/001260
『まがいものでないもの』
笠置寺正月堂の前には、高さ15.65m幅15mの巨岩がそびえ立つ。
この巨岩には、かつて笠置寺本尊たる弥勒菩薩が刻まれていたという。
いわゆる磨崖仏(まがいぶつ)だ。

幾度かの火災により巨岩表面が高熱に晒されてしまい、現在はその下地が残るのみ。
だが、磨崖仏を刻印するにあたって、巨岩表面を広範囲で整えた作業の凄さは伝わってくる。

普遍的なものを持つ行為があり、その記録が在れば、千年の時をも乗り越える。
 
感じ手側としての自分に、信仰心の在る無し以前の、
かつて人間が成し遂げた行動そのものから受ける凄み。
それは、積極的に読み解く努力をすべき対象だし、そういう呼吸が出来る大人になりたい。

20040621/001261
『マガイブツ・ガイ』
『弥勒大磨崖仏』から少しの距離をおいて、道の先には『虚空蔵磨崖仏』が在る。
その、刻印された姿は、虚空蔵菩薩・弥勒菩薩・如意輪観音など、諸説あるそうだ。
見極める知識も姿勢も無いまま、その偉業を見上げる。

 
この磨崖仏の前に在る道幅は狭く、頑強な足場を丸太で組上げるに充分な広さであったとは思えない。
巨岩の上から命綱で吊り下がって刻印しする、人間の姿を想像する。それが、正解かどうかは解らない。
巨岩に対してあまりにも小さな人間が、この巨大な刻印を成したのだ。それは、事実だ。

歳を重ね、社会の中での日々を重ねてゆく程に、他者の行為は立派に思えてくる。
それは、より実感を伴った状態で“来る”ものだからたまらない。
 
真摯に人生を完成させてゆこうとする勇気を持とうとすればする程・・・
自分の未熟や欠陥は、鮮明になる。

他者を貶めたり否定する事で精神安定や虚勢を計れる程、幼稚でもいられない。

この日の、誰も居ない細い道で、そんな事を思案しても、頭上には巨大な磨崖仏。
まぁ、思案してるだけで人生が変わる訳でもなく、なんだか屁もしたくなってきた。
磨崖仏の前で屁をするのも関わった様々な人々に無礼であろうと、先へと急ぎ足。

20040622/001262
『それでも獣道にあらず』
だいたい、山頂部に、こんなに巨岩や奇石がムキ出しになっていて、
しかも其処を歩けるとは幸運だ。
それもただ降ってわいた幸運ではなく、人が作って管理し続けてくれている道なのだから有り難い。

人影は無い、だが、枯葉などは奇麗に道から掃除されている。
 
道をゆく時、その道を作った人間や時間に留意せずに通り過ぎる事が大半だ。
1歩ごとに発見や確認や認識を繰り返していては、自分が見えなくなってしまう。
人間が思考できる思考量には、上限が在るからだ。

知らない場所を乗り物で通過するのではなく、
徒歩速度で歩きたいという願望から逃げられない自分が居る。
それは、知らない誰かの努力や時間を確認認識したいという・・・まっとうな行動原理だけでは無い。
人と関わる仕事を選択し、そしてそれをも楽しみたいという現実と願望。
そういう日常に役立つのではないかという、姑息な願望。
その様な思考のガラクタを、いろんな所に身につけて、歩を進める。
 
そのくせ、脚が疲れてくるまでは、あまり・・・その自分の1歩にも認識が少ないのだ。

20040623/001263
『X分の1産道』
かつて、修験行場として機能していた時代の証しを示すかの様に・・・
道の先に、“胎内くぐり”が待ち受ける。
 
修行場と日常との境界であり、結界。
それ故に入口では、冷水などで身を清めて心身を律して修行場に挑むという通過儀礼が行われる。
だが、岩が剥き出しになった山頂部ゆえに、この笠置山では水が乏しい。
その為、巨岩が折り重なった細道を産道に見立てて“通過”する事で、
現世から修行場へと生まれ変わり出るという通過儀礼となっているのだそうだ。

母胎回帰願望を安易に認めたり依存したりなど、出来ない年頃。
だが、異界への通過門としての洞窟には、非常に惹かれるものが在る。
 
新しい場所へ、新しい時間へ、進む為には“区切り”が必要なのだ。
自分はこうして、それを好む人間だが、
それは・・・“区切り”を認識して更新していかなければ、
惰性に支配される脆弱が身にしみている為でもあるのだろう。

20040624/001264
『吻合の愉しみ』
山頂部には、“出口の無い”石窟も在る。
巨岩が折り重なっているのだから、出口が無くても全く不思議では無い。
 
観光洞窟として整備されている所においても、大半の洞窟で出入り口は共通だ。
カルスト地形などで、穴が無数に存在する洞窟でも、
どれを出入り口と認識するかは人間の主観に過ぎない。
そもそも、洞窟というものに、人間が通行できる出口が在ると先入観を持つ方が不合理なのだ。
 
同じ道を引き返すという行動が自分に返してくる、ネガティヴなイメージ。
そんなものを感じてしまうというのは・・・
負けオタク気質として、様々な事を未完成にしてきているからこその感覚でもあるのだろう。

何かを為し、獲得して引き返してくる者は、次の袋小路でも獲得できるのだろう。
そうして、負い目よよりも大切なものを獲得してゆけば、先に光の無い洞窟も楽しめるのだろう。

20040625/001265
『蟻が細道をゆく様に』
面白い事に、山頂部には、
巨岩と巨岩の間に在る細い空間をすり抜ける様に進める場所が在る。
 
その先は一見、高い段差になってていて行き止まりに見えるのだが、
危険に留意して進むと、岩に手足をかけて“向こう側の道”に出る事が出来る。
 
そこに至るまで、誰にも会わずに進んできたというのに、
何か秘密の特別な空間を発見できたようで。
どうにもこうにも、座るのも勿体ない気がして、しばらくを佇む。

20040626/001266
『棒の穴から空を見る』
道の途中で、先刻見た“猫の碑”を思い出す。
笠置山は、紅葉の名所にもなる程に、温度差が激しい。

ふらりと何処からかやってきて、住み着いたのだという。
 
昔に猫を飼っていたり、野良猫にちょっかいを出したりする身としては・・・
寒暖の差が激しい山頂部を終の住処に選択したという、猫自身の選択が気になる。

結果を振り返るに、人にも猫にも幸福な時間は在ったのだろう。
 
動物というものは、そもそも色々と面白いものだ。
猫という動物は、あれは面白い。

以下、先日に友人とのメールに書いた事の覚え書き。

20040627/001267
『白鳥は寂しいんだか』
動物というものは、そもそも色々と面白いものだ。
猫という動物は、あれは面白い。

動物として見る面白さだけではなく、時には擬人化によってヒトの心的鏡像にもなってくれる。
ただ、ヒトとヒト以外の動物には、知能と知性の差が厳然として在る事もまた忘れてはならない事実。
猫や犬や猿や海豚など、動物の中でも知能の高さが証明されているもの達は確かに多種。
 
それらの動物は、
自己周辺環境の変化として飼い主等の存在を認識し、そして不在をも認識できる知的機能を持つ。
人とは異なりながらも、“寂しさ”を知覚する動物達といえるだろう。

もっと単純な知能を持つ魚類など・・・
外敵から身を守る為に群生して外見的巨大さを形成している生き物が感じるであろう“寂しさ”とは、
異なる次元での“寂しさ”を、猫などは持つのだろう。

群れて生きるべき魚が群れからはぐれてしまった場合、“寂しさ”と“生命の危険”は直結する。
そういう状況と、単独行動可能な猫や犬が感じる寂しさの間には混同できない領域が在る。

そういう視点では、猫や犬が感じる寂しさは、よりヒトにに近い領域を持っていると考える事が出来る。
 
しかし、基盤となる「知能」と、それを整理・統一・発展させる機能としての「知性」において、
ヒトとヒト以外にも混同できない領域は、在る。

我々は擬人化によって、人間の言葉で動物の感情を語ってしまいがちだが、
動物には動物なりの、言語化される以前の原始的・根源的な感情領域が種固有のものとして在る筈。
人間にとっては些細な環境変化が、動物にとっては巨大な変化かも知れず、その逆例も在るだろう。

この様にヒトとヒト以外の差を、思考前提として提示すると、色んな風に解釈する受け手も。
「だからヒトは偉く、ケモノはアホなのだ」とか、
「この子はこんなにかわいいのにケモノ扱いとは薄情な ! あなたは人でなしだ」とかとか。

でも・・・人間と同居する動物側には、
何が「寂しさ」で「幸福」なのか根本的な部分で人間に理解出来ない領域が在って当たり前。
全て安易に擬人化して人間の言葉で安易に解釈してしまう方が、動物にとっては迷惑な事も多々ある筈。

“人間と動物の差を認識した上で、
情と責任を最期まで忘れずに接し続ける”という基本姿勢が在ってこそ、だ。

それができてこそ、人間と同居した動物は・・・
総括的に「寂しくなく幸福な部分を一生の中に僅かなりとも持てた」と・・・言ってあげられるのだと思う。

20040628/001268
『わかってくれた猫のように』
勿論、擬人化うんぬんについては、単純に善し悪しでは計れない面も持つ。
特に、猫はそういう不思議な接点を人間と保つ動物でもある事だし。
ただ、動物を動物として見る視点も忘れずに在れば在る程に、その動物にとってより幸福な関係も増す筈。
 
ヒトより小さくて弱い部分を持つゆえに、本能的な体調変化・環境変化には過敏である動物たち。
飼い主という存在は、動物にとって自己環境の重要要素であるという前提は、在る。
飼い主の体調不良・神経衰弱に対して過敏に反応するのは、不思議な事でも超自然的な事でも無い。

人間側は動物の中に自分の鏡像を見てしまう事が多いので、
「自分の事を解ってくれている ! 」とか親近感や感情共有意識を先行して認識してしまいがち。

勿論、猫などの場合は知能を持つので、全くの無感情で反応してくれている訳では無い。
だが、情感だけを優先して見てしまうと、本能的な反応を無機質・無感情なものとして捉えがちになってしまう。
そもそも、動物にとって本能的反応とは生存本能に直結するものであり、実に真剣な反応な筈なのに。
 
飼い主の気力体力が衰弱する事は、自分の命にも関わる事。
その為、飼い主側には、どれほど伝わっているかは証明できなくても、
言葉をかけたり微笑む事が動物たちの命をも癒しているという事を忘れずにいる責任が在る。

自分が癒されていると感じれば感じる程に、動物や他者の視点に立つ思考が薄くなる様では辛い話だ。

20040629/001269
『アンザイ』
笠置山には、後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)跡が在る。

1331年8月26日から9月29日までの約1ヶ月間、後醍醐天皇が皇居として過ごした場所。
その・・・9月29日の全山焼失によって、全ての建物は失われたそうだ。
 
歴史の教科書では数行であった事だが、
事前に復習してきた知識と、何よりもその場に自分を立たせるという事の実感。

自分という者は、こうして実感を続けてゆかねば解らない事ばかり持っている様な気がする。

現在、笠置山の行在所跡は、痛んだ石囲いだけが残されている。
囲いと言っても、完全に囲われているのではなく、“石の門” だけがただ佇んでいる。
 
この地に至る少し前に『妖怪人間ベム』の再販漫画を入手して読んでいたのだが、
その、アニメ版で幾度も画面に現れた“人影の無い異質な街並”を追憶連想した。

クトゥルー神話や異国の民話を思わせる様な、
陰鬱かつ異質な物事を確実に含みながらも、奇妙に安定した静寂をも内包している空間。

そういう空間に、旅先で巡り会う事は意外と多い。

その度に、“ここは現実でこの記憶は本物として残るのだ”という事が嬉しくなる。

20040630/001270
『怪獣帰郷』
笠置山頂からは、笠置キャンプ場が眼下に一望できる。

そこには、先刻まで過ごしていたという現実が在る。
まだ、郷愁は、感じない。

郷愁に至る程の時間蓄積は、無い。
ただ、自分が居た場所の小ささは、見える。
自分が自己領域と認識して安心していたテントの小ささが、解る。

これは、面白い。
 
怪獣が出てきそうな郷愁を湧かせた、山の稜線。
その上に立ってみたものの、まだ郷愁には至れない心理。

郷愁を誘因する虚構道具としての怪獣は、
物語構造中で自己郷愁を完遂する前に排斥される宿命を持つ。

物語構造中で、怪獣が擬人化されていようと、いまいと。
 
怪獣の1歩と、自分の1歩は違う。
旅という、奇妙な不確かさを持つ1歩が、現実に戻る為だというのも面白い。


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