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『大作戦日誌』20040401-20040430

20040401/001180
『竜の谷センチメートル』
2004年3月28日。行動隊『ドーゼオーバーズ』にて、京都は伏見稲荷に詣でる。

蒼天快晴。春日和どころか、暑い程の陽気。ゆるりと、おけいはん気分で京阪電車。
京橋からだと、半時間程で到着。駅から徒歩数分で到着。

なるほど、やはり行ってみないと距離も時も実感できない年頃だ。
意外と近く早く辿り着けるのだから、もっと早くしていれば良かったのかも知れない。
 
稲荷山を登り始めて、そして振り向くと『龍谷大学』が見えた。
高校の時、奇特にも好意を寄せてくれた同級生が進学した学舎。
1度だけ学園祭に行き、今よりも更にマイナーだった手話サークルの展示を見た記憶、検索。

なるほど、そうか?
そういう想い出に干渉する時空間への接近を迷っていたとするのなら、単純な動機付けだ。
されど実際は、高所に登って見て初めて位置関係に気付いたのだから仕方が無い。

いつも単純な所に真実が在るとは限らないし、否定したい所に真実が在るとも限らない。
不可知だった物事に、無意識下で単純な理屈を押し付けて納得すれば気が済むというものではない。
それで納得できる程度の想い出しか、現在に持ってこれていない事の言い訳になるだけだ。

宗教も想い出も、その辺りのヒット&アウェイが肝心カナメか。

 
ちなみに、ナニか“蛇神さま”みたいなものが上の画像に映っているが。
正体は、デジカメに装着していた、100円店購入なセンスの悪いストラップ。

20040402/001181
『パンチだ ! マウンテン霊感』
今回の多透以外な参加メンバーは、
ギョウジャニンニク(コードネーム)&セックスドクター(コードネーム)の両名に加え、
スメルレディ(コードネーム)が初参加。浪速のワーキングガール。

スメルレディと記述すると、
「すわっ ! 個性的な体臭がッ !?」と色めき立つ体臭マニアが居られるかも知れない。
まぁ、“体臭の強い美人”という嗜好も、理解できないでも無い。
口臭なら、「胃・・・悪いんちゃうのん?」と心配になりがちだが。

されど、スメルレディ(コードネーム)の場合は体臭ではなく、精神的嗅覚能力者。

サマザマな物事が渦巻くメカニカルタウン大阪で人生やってきただけあって、精神的嗅覚が利く。
それにプラスして、いわゆる“女のカン”を装備している為、男にとっては難易度高い目か。

女性に対して「女のカンが鋭い」とか「女ならではの霊感」とか述べると、
あまり悪い顔をされる婦女子は居られない傾向は、男側の感覚としては在る。

この場合、男側が留意せねばならーぬ論点は、実際の霊感の有無ではなく、それ以前の物事。
一般人が“霊感”として大雑把に捉えたり言葉にするのは、つまるところ感受性の鋭さ。

これは霊的領域での知覚というオカルティックな観念以前に、
人当たりの良さや、当意即妙な思考速度の良さ等の複合能力こそを論点とすべき。

その様なコミュニケーション能力は、天性のものだけでは成り立たぬもの。
社会の中で生活し、喜怒哀楽を自ら体験して、その中で獲得したチカラ。

単純に「霊感」やら「女のカン」という言葉でひと括りにすれば、女性からの評価はガタ崩れ。
現実の中で獲得してきた現実的な良さを正当に評価して誉めてあげないとイカンのも常識。
女性には感情のリズムによって、「もっと現実の私も見てーや ! ほんまにもぅッ ! ! 」な日が必ず在るし。

 
伏見稲荷の長い参道を登り歩きつつ・・・
スメルレディにパンチピーチ(桃色肌で繰り出す正拳突き。その威力はコピー用紙をも吹き飛ばす)を、
食らいまくるセックスドクター氏を見つつ、そんな事も考えつつな春の午後。


20040403/001182
『ホームの神様』
伏見稲荷へ向かう朝、まだ1人の道中。
春の大気中に、僅かでも夏気配を探し欲しようとする年頃。
午前9時といえども、既に陽射し輝度高し。
駅のホームから、階段を登る。

「誰かっ ! そいつ止めてーッ ! ! 」

背後からの、突然な叫び声。
長いホームの半分ほどに、越えは到達しただろうか。
瞬時に、それ以外の沈黙。声が大きければ大きい程に、人間は注目するか無視しようとする。
発声者は推定20歳女性。
彼女が走り向かう先には、これまたス推定20歳な男が逃げ走る。

よく都会の無関心は論じられるが、
意識調査データによると“誰かの役に立ちたい”と思っている人間は多いそうだ。

人込みを縫う様にして走り逃げようとする男に、幾人もの通行者がタックル敢行 !
血気盛んな中年男性が、瞬時に逃亡者を押さえつける。
階段の上から、微かに見えた逃亡者。
一見、気も体力も弱そうな細身の眼鏡ボーイ。数秒も抵抗できずに、ぐんにゃりさん。

人は、やはり誰かの役に立ちたいのだ。
そして、自分が正義の側に居るという認識が在れば在る程に、行動は具体化し易い。
 
「すみません、すみませんーっ」
既に、バルト3国の結束にも匹敵する力で3人以上の善人に押さえつけられた眼鏡ボーイ。
彼はそれまで、道に寝転んだ事は在ったのだろうか?
ホームの舗装が持つ硬さが、幼い頃に道へ描いたラクガキを思い出させただろうか?

なんらかの被害を受け、それ故に追跡を敢行していた女性。追いつく。
もはや身動きできぬ眼鏡ボーイの頭上、仁王立ちしての一言。

「逃げられると思ったんかっ! この、アホッ ! ! 」

それでも、何処かで桜は咲いているのだろう。
こういうのがズンドコ広かって、戦争になるのかと素直に解った。

20040404/001183
『ゴッド・オブ・ピンボケ写太』
待機状態のデジカメで覗いたら偶然に撮れてしまっていた、巫女さん画像。
何か、儀式の最中だった模様。
その為、警備員さんに、やんわりと撮影を止められた。
一眼レフと三脚を構えようとしている、中年男性も居たが。

他の時ならどうだか知らないが、そういう取り決めな儀式だったのだろう。

神域で必要なのは、礼儀。異存は無い。
神域に入りては、神域に従え。
信仰云々よりも、まずは、文化に対する礼儀として。

この際だから、何故に撮影禁止であるのかを思考してみた。

巫女さんの集中心を、撮影フラッシュで削ぐ可能性。
他にも色々と考えられるにしても、これもまた考慮されるべき事だろう。
観客だから、何をしても良いという訳では無いし。
そもそも神事で在る以上、メインの観客は“カミサマ”である筈。
 
結婚式場で働いている知人が、こんな事を話していた。
「披露宴でね。最近は、親族や仲人の挨拶とか聞いてないのが大半。
 若い子らは大概、メールしたり携帯電話のカメラで撮影したりしてる。
 そりゃあ、撮影タイムみたいなのは昔からあるけど、
 手に手に携帯電話持ったのが同じ様に構えて映してる姿、異様やで」

なるほど。持っていれば使いたくなる例か?
素朴な疑問としては、その“新婚写真”を“どうする”のだろう?
ケータイのメモリーに永遠に残すのか? パソコンに転送してCD-Rに残すのか?
誰かにメールで送りつけるのか? とにかく、2・3日は残して“削除”するのか?

デジカメ内蔵で一般的になった分、撮影内容よりも道具を使う事自体が目的化している例か?

そんな風に、カメラに振り回されてるカミサマはやだなぁ。

20040405/001184
『京の山奥に狐パラダイスを見た』
伏見稲荷は、全国に約4万近く在るという稲荷神社の総本社。
日本三大稲荷とされる二番三番には諸説在るそうだが、一番手は当然、伏見稲荷が不動の座。
商売繁盛・五穀豊穣・開運の守護神として有名だが、
今や“願い事なんでもこい”になっているのは世の流れか。

これは、商売っ気を出した為とか詮無い事を言う前に、合祀が連綿と続いた為だと思いたい。
合祀とは、読んで字の如く、二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀(まつ)る事。
廃仏毀釈・宮司の相続困難・土地問題など様々な理由で、合祀は為されるのだろう。
 
その日は好天という事もあって、混雑という程ではないものの、参拝者は結構な数。
初詣時期には、猛烈な人込みとなるそうだが。

檜皮葺きが渋い本殿に参拝した後は、背後にそびえる稲荷山山頂を目指す。
参道には、有名な千本鳥居が堂々と並ぶ。
勝手な先入観では、もう少し間隔が開いているのだろうと思っていたのだが。
実際は、ほとんど間隔無く密集しつつ延々と鳥居が並んでいる。
陽光に、鳥居の朱が映える。

この参道は、全長約4kmとの事。所々には茶店が在って、休憩しやすくなっている。
一部に勾配がキツい所も在るが、足の不自由な方々も頑張って登っていたのが凄い。

参道各所には、数多くの祠や塚が祀られている。
参拝者は自分の目指す祠まで登ったり、巡拝したりするそうだ。
 
歩き進むうち、ぱらりっと素直に感じたのは、
「なるほどぅ、お稲荷さんのテーマパークか?」という感覚解答。

文化や信仰を、蔑む意は無い。
村祭り等のハレの場や、娯楽が、現代より濃密でありながらも種類少なかったであろう時代・・・
お稲荷さんだらけの空間は、単に信仰や畏怖の対象としてだけではなく、
テーマパーク的に楽しんでいた人々も多かったのではないか? という意。

少なくとも、
現代に生きる身としては、そう思えたし、そうも楽しめた。

20040406/001185
『ボクのボクの超能力でキミをキミを助けてあげる』
安全対策の為、熱湯モードが付いていない機種は、意外と在る。
だが、職場の瞬間湯沸かし器は、強力だ。
最高出力では、即席麺を調理せしめる程の熱量を有する。戦闘は、火力で決まる。

「本日は、UFOを食べてみませう。しかも2つ同時」

だが、ソースの袋を取り出し忘れたまま・・・熱湯を投入。
結果、袋は無事だったので、無事に食す事が出来た。
結果が経緯を凌駕すると言う、良い例だ。

こんな時、UFO仮面ヤキソバンが居てくれたら・・・チカラになってくれたであろうか?

ヤキソバンとて、実在したのならば、実在するが故に因果律には逆らえぬ筈。
まずは物理法則にも、従わねばならぬ。
スープ袋を救出する為に時を戻すにせよ、それを為すための膨大なエネルギーを消費せねばならない。

時間軸を揺るがす程のエネルギーを、この宇宙にまき散らすより・・・
新品を買って来てくれた方が、遥かに世のため人のためになるのも事実。
 
何かを信仰する時、有力な理由となるのが“ご利益”である事は当然で必然。
何かを得られるであろうという、“期待”こそが原動力となる。

実際には、信仰に値する何か・・・参拝・お布施・修行などなどを為した事による、
“安心感”“充足感”等も、結果としてだけではなく経過中も平行して心身を駆動せしめる。

それらの感覚群は、奇妙な程に、分割不可能で数値化困難なものだ。

神も仏も霊も悪魔も天使も、実証不可能な存在であり、
実正不可能な存在で在り続けなければならない。

実証された瞬間、それは分割も数値化も可能な存在になってしまう。

信仰の対象と足り得て、“期待”を無限に吸収可能な存在として在り続ける為には・・・
限りなく虚構で在り続けなければならない。

20040407/001186
『狐狩りに行くならなら気をつけておいきよ』
“きつね”は、油揚げ。“たぬき”は、天麩羅もしくは天かす。
でも、関西では“きつねそば”が“たぬき”と呼称されているのは有名な話。
されど昨今、“たぬき”=“天麩羅そば”のイメージは関西でも定着している。
これは、日清『どんべい』の認知度に伴って、認識が流布された結果ではないかと思う。

民俗学の本で読んだのだが、
人を化かす狐狸の民話伝承において、関東圏に狐関連が多いらしい。
お稲荷さん総本山は京都に在るのに。
日常を対象に、関東・関西をヒステリックに区分する論調は気疲れするが、
こういう民話文化伝承の比較というのは面白い。
 
民話伝承では『ぶんぶくちゃがま』等、タヌキ物語の方がユーモラスだ。
キツネは、蒸気機関車に化けてみたりな物語は在るものの、狡猾なイメージが先行。
『九尾の狐』の様に、大陸から渡来してきた狐に知性派が多い事も興味深い。

狐狸ともに信仰対象になってはいるが、
キツネ側により畏怖のイメージが在る事に、民話伝承は様々に絡んでいるのだろう。
“お稲荷さん”という敬称に対し、“信楽焼きの狸”の能天気さは何なのだろう?
ウチにも“信楽焼きの狸”は1体在るのだが、やぁ、実に突き抜けた笑顔だ。

女狐とは言うが女狸とは特に言わない慣習にも、この辺りのイメージが関与しているのか?
まぁ、ヒト女狐だと、騙されたり化かされたりしても得るものが多いのだが。

結局、男はフラれたり獲得したりを重ねないと、学習できないし強くもなれない部分を持つ。
騙されたり化かされたりは、現実に実在する対象がなければ成立しない。

神や仏や霊や悪魔や天使などの不可知対象に対して、
「こんなに信仰しているのに、なんでこんな目に ! 」と愚痴っても、それは自家中毒だ。

で、“自分の人生に対する女狐の必要性”を実感するやいなや、
「すわ ! 女狐狩りゴーッ ! ! 」と色めき立てられるのもヤングメンの特権だが・・・
中島みゆきさんも、こんな風に歌っているので油断ならない。

「きつね狩りは素敵さ ただ 生きて帰れたら」

20040408/001187
『行けば解ると通りゃんせ』
寂しいぐらいに長く遠い道を歩かねばならなかった事が、現代よりもずっと多かった頃。
例えば、暗い田んぼ道や、何処まで続くかも解らない堤防の上・・・

単純行為の繰り返しは、人間を催眠状態に誘い易い。
単調な直線道路に於けるハイウェイ・ヒュプノーシスと同様、
暗闇の道では、狐狸の類が見えたり感じられたりしても不思議では無い。

西表島にて、夜闇の道路を自転車で走っている時は、
何か特殊で不可思議な物事を“見たい”という感情さえ在った。

暗闇を往く時、出口にして突破口で在る光を望むのは当然の事。
だが、暗闇の最中だからこそ、見えるかもしれないものや、見ておくべきものも在る筈。
 
伏見稲荷の稲荷山参道。
千本鳥居の中を巡り歩くと、鮮やかな朱色の連続に、思考が高揚する。
昔も今も、文字通りの“通過儀礼”の場で在り続けるのだろう。

人は、幻視する時、“見たいと思っているもの”や“見たくないと思っているもの”・・・
すなわち、“自分が見えるかも知れないと思っているもの”を“見えた”と思う。

つまるところ、幻視とは、超常的な何か以前に“自分”を見ている事と言える。
通過儀礼で獲得すべきものとは、そういう事なのだと、ふわりと解る。

20040409/001189
『カレー惑星に到着』
いつもながら当日誌の日付はズレているのだが、
ズレてはいない間違い無い今日真実の日付は・・・23日。

友人達が、人生の新章に突入。
2人での新生活へ向けた、引っ越しの日。

朝方の雨に、ちょっと気をもんだが、すぐに太陽が見えてきて安心。
本人達から聞いた以上に、いろんな事が在ったのだろう2人だけれど、
洗い流すべきものを奇麗に洗い流して太陽に向かう訳で、幸先よしっ !
 
午後になって、引っ越し無事完了のメール着信。
まずは2人で、祝いのインド料理だそうだ。

ナイスセレクト。良い芸だ。

おめでたうございます。
これからは、
ナンの様に薄くとも味わい深かったり、カレーの様に濃く深かったりな幸せを、
お二人で沢山集めてお腹いっぱいになってくださいませませ。

あぁ、楽しいなぁ。

20040410/001190
『ボクの内、キミの外』
人生の新章に踏み出そうとする時、充実した人相を見せる人が居る。

たとえば、人生のパートナーを得て新生活を始める2人。
人相のみならず、人としての雰囲気そのものの充実成長が感じられるのは、気持ちいい。

これは、2人のつきあいが長い短いを、特に問わない。新章への、意欲次第だ。
現状認識には、希望のみならず緊張も不安も在る。
しかしそれ故に、漠然とした根拠無き希望ではない。だからこその充実。
 
これは・・・たとえば、三十路オタク同士の依存関係とは異なる。
三十路オタクがソロでオタク道を行く辛苦を、世の婦女子は到底理解できまい。
世にオタク道は数在れど、アニメ・マンガを核とするオタクフィールドでは尚更に。

三十路となっても彼女も出来ず童貞のまま美少女キャラに「萌えーっ ! 」と叫び、
女の肌を知ろうともしないままフィギュアの表面を知り、年下オタクにはキモオタと陰口を叩かれ、
お母んには泣かれ、やがて四十代、それでも素敵なグッズは増えてゆく・・・

それほどまでに過酷な日常に単独で立ち向かう術は、覚悟のひと事では足りぬ。
妥協に基づき、感覚を飽和させて、日常を先送りしてゆくしか無い。
そんな状況では、互いの批判も成長も問わないままダラリと依存し合える仲間が必須なのだ。

・・・と、そんな事を、女友達に話していると・・・
「なに言うてんのん? 
 オタクであろうが無かろうが、独身女は依存相手が居て当たり前やよ。
 とんなに理屈コネよーが、そーゆー生き物やもん」

なるほど・・・・・
人として“こう在るべき”とか以前に、多透自分が“こう在ってほしい”という人の連なり。
それが、依存ではなく、共生。

守り守られる相手が居るという事。自分以外に、自分にとって大切な者が居るという事。
共に、生きるという事。
そういう道へと踏み出してゆく者達を、心地よく思うのは、そういう事なのだな。

20040411/001191
『鍵を噛むと100円玉の味かする』
鳥居とは・・・境界で在り、門でも在る。

稲荷信仰では、狐が鍵をくわえて幾度も鳥居を飛び越す事を繰り返す事によって、
稲荷大明神に成る事が出来るという民話伝承も在る。
この事から、“鳥居を越す”という言葉は、経験を積むという意にも使われてきたそうだ。

そういう空間を通り抜けて来た記憶と経験と、画像が在るうちに・・・
人の連なりに関する事などを、
宗教感やオタク感と絡めて、メモ書き感覚で書き連ねてみよう。

かつて、“オタク”という言葉はアニメファンから発生したと言われる。
つまり、原始オタクとは、アニメオタクだった。
その後、様々な細分化や多様化、そして命名化が為されてきた。

“1億総オタク化”等という言葉も出たり、
海外でもコアなマニアを指す言葉として“オタク”が使用されたりもした。
社会人として自信の無い者ほど、こういう情報には鋭敏な反応を示し、
権威付けが為されたと拡大解釈して、救われた気分になる。
しかし、そんな気分は、幻影にすらならない虚構だ。

NHKの『BSマンガ夜話』で、岡田斗司夫氏の姿を見た瞬間に、
同族を見つけた気分で“なにか安心”してしまう人は気をつけた方がいい。

岡田氏は、オタキングと名乗ってはいるが、結婚・子育て・出版・講演など、
社会的弱者としてのオタクからは既に“外”の立ち位置だ。

元来、蔑称としてオタクという言葉を使う場合、
“自分の興味を持つ物事以外は話さない等、社交性を欠く性質”を指す。

“オレは、あんなオタクになりたかった”とか、“あんなオタクになろう ! ”とか、
“おもろいオッサン”とか“勝ち組オタク”と見るのはともかく・・・
無条件に“ボクの味方 ! ”と救済を感じたり求めたりするのは詮無い事。

現実を伴わないインスタントな救済感は、社会的弱性を加速させるだけだ。
 
冒頭の“鳥居を越す”という言葉の関連で、
乗り越えて来た場数を表すものとして、“鳥居数”という言葉も在るそうだ。

今や、同様の事を述べる場合、ゲーム用語によって一般化した感も在る・・・
“経験値”を使った方が通りが良いだろう。

オタクで在ろうが無かろうが、望もうが望まなかろうが、我々の前に“門”は来る。
“境界”を“門”を越えて日々を生きるには、
民話伝承の鳥居越えでも無く、モニターに映る経験値でも無く、
自身の具体的行動でしか無い。

20040412/001192
『目隠しで入ると風呂の湯があふれるのを見なくて済む』
先日分の様な事を書くと、
「最近、多透さんはオタク憎し調になっとりますなぁ」とか言われたりするのですが。
べつに「ぼかぁ、もぉ、オタクなんて卒業ザンすよ。ふふぅん」でも、「オタク憎し ! 」でも、
近親憎悪でも選民思想でも無く、自己客観視も含めた思考メモという事で。

文才不足で論点が見え難い事は詫びつつ、
先日の文で言うと、オタキング云々よりも・・・
“現実を伴わないインスタントな救済感は、社会的弱性を加速させるだけ”というのが、核。

これは、アニメや漫画に限らず、
宗教・超常現象・政治思想・性意識・趣味・正義感・仕事・鳥インフルエンザなどなど・・・
つまるところ、日常の色んな物事に対応できる大雑把な物言い。

要は一般常識なのだけれど、なかなか客観視できない部分で在る事も事実。

個人的な自己客観視で見えて来るものとして、
オタクフィールドに安住している程に、この“インスタントな救済感”は厄介だ。
負けオタク・勝ちオタクの分岐点は、
この感覚の処遇に左右される部分が多いとさえ思う。
 
論理的思考が不得手な人ほど、
何かの例を出されて話をされると、その例自体で頭いっぱいになってしまう。
本来、話を解り易くする為に出された“たとえ”に思考捕縛されては、
大局視能力の発揮や発達が期待できる筈も無し。

一般的には、それでも話の本筋を理解しようと、後ろ髪引かれる部分が生じる。
しかし、オタクフィールドに依存していればしている程に・・・
大好きな領域から“たとえ”を出されると、勝手に思考が得意分野で肥大してしまう。
結果、行間を読むどころか、話の本筋すら伝わっているのか疑問な会話となる。

オタクがネガティヴに語られる行動例として、
“何か自分の守備範囲な言葉が話題に出ると、延々と喋り続ける”というのが在る。

場を読めず、話の本筋さえ把握できず。これは辛い。

こういう負けオタク的特徴を示す部下達に悩む、
三十代管理職女性が語った言葉が言い得て妙。

「誰かの背中にしか吠えられないカス犬が道に迷った途端、
  餌を見せる他人に媚びまくる感じ」

言い得て妙だが、これは辛い。

オタクフィールドの面白さと利点も知っているつもりの自分としては・・・
最初は辛くとも自己客観視から逃げずに、場を読み、
発達させてきた記憶力を活かせば、もっと自分を救えるのに・・・と思う。

それは““現実を伴わないインスタントな救済感”などではなく、
自分と自分の周囲の人々を救う事に繋がる“門”のひとつである筈だから。

20040413/001193
『虚構の隣人』
ならば、オタクフィールドの面白や利点とは、どういうものなのか?

実は、幾度も書いてきた“視点の多角化”の練習に“も”なる点だと思っている。

自分が、オタクフィールドの空気を今よりもずっと濃厚に呼吸していた80年代。
ガンダムブームの波及も在って、いわゆるリアル系ロボットアニメが頻出していた。
そしてその頃のロボットアニメ群の物語中には、奇妙な事に、
“敵対している異星人が実は太古に地球人と同一種だった ! ”という設定が幾つも在った。

制作者側としては、
同じ祖先を持つ異星間種族同士が争うという、悲劇性を出したかったのだろう。
ただ、偶然なのか故意なのか、同時期に異なる物語で同種の設定が重なってしまったのだ。

そういう事に気付いた場合、反応の選択権は受け手側にこそ在る。
「またかよ」「アレのパクり」「まぁ、これはこれで」と、
ケナしたり受け流したりは無思考でも出来る。

「地球人同士でも現実世界で戦争してるし、親兄弟でも憎しみ合ってるのは現実にも居る」と、
まず当たり前の現実を踏まえた上で、虚構世界を認識して楽しむ事は、少し考えるだけで出来る。

現実世界を把握し続けるチャンネルを開けておく事は、夢想性や想像力に乏しい事ではなく、正道。
虚構が現実の延長や裏面である事、虚構という囲いを認識しつつ、
物語から汲み取るべき物事を汲み取る“練習”となる“門”が、そこには在る。
 
異星人同士が会話している物語を見て、
「こいつら日本語やんけ」とケナすだけで終われば、未成熟思考なのは誰にでも解る事。
劇中設定として、翻訳機・超存在による言語統一・通訳などが提示されていてもいなくとも、
それらのテクノロジーを考えたり文化による齟齬を考える“門”が、そこには在る。

現実世界で、英語も日本語も万能でないのは、
物語がどうであれ現実に認識しておくべき事なのだ。

ロボットアニメに限らず、ファンタジーやサイエンスフィクションの利点は、
異文化と対峙した場合の思考実験を行う為の簡単便利な“門”となる事だ。

「同族であろうがなかろうが、悪い奴は悪い」
「異文化の尊厳」「所変われば品変わる」「人間としての共通項」などなど・・・
“門”の先で得られるものは多種多様に在る筈。

個人的には、十代の終わりから二十代半ばにかけて、
在日外国人も多く住まわれる町で働きながら学校に通った日々の経験も、思い出せる。
偏見に陥る事なく、差異を楽しむ方向性を保ちながら過ごせたのは、
虚構世界や虚構異文化を楽しみつつ思考してきた事も、無駄では無かった気がするからだ。

20040414/001194
『金色の頂点が凄いとは限らないとは限らない』
旅行やら、帰って来た途端の書類仕事三昧とかとか。
あれよあれよと言う間に、一週間も更新が滞りまして。もはや5月7日。
オタク依存関連メモは、そのうちコッソリと。

本年の黄金週間は、
『ディズニーランド』『ディズニーシー』『ジブリ美術館』という、
絵に描いた様な上京三連発。

前売り買ってたから良かったものの、それぞれ早々に入場制限が出る盛況。
「ここは中国ですかっ ! ?」と、幻視する程の人込み。渋谷の町も大混雑。

無理にアトラクションを消化するより、空間を楽しむ方針で乗り切り。

表層的な好き嫌いで批評モドキを楽しんで済む歳でも、無し。
それぞれの空間で、吸収し、咀嚼すべき物事は幾らでも在る。
今回巡った施設や首都圏だけでも、満腹を通り越した感覚大。

画像は、正月旅行で行った波照間島。
破損したデジカメデータから汲み出した陽の出。
有人島日本最南端の最南端海岸から見たもの。

あっという間に今年も5月。
“毎月他府県突入”は達成できているものの、数値上では波照間が最遠。

しばらくは更新できないであろう、移動最長距離記録。
それが解っているなら、中味を積めてゆくしか無いのも事実。

次は、何処か?

20040415/001195
『見たくないトコロにも出口は在る』
伏見稲荷の参道は、山肌を縫う様に在る。
その為、登りだけではなく多少のアップダウンが在り、
それ故に、ふと眼下に、これからゆく道と鳥居が見えるのが趣き深い。
 
つまるところ、先のメモ書きの先に辿り着こうとしていた思考要点の入り口、は・・・

「ネガティヴに語られがちなオタク的依存性は、もはやあらゆる所に偏在している。
 それは今に始まった事ではなく、宗教依存などもオタク依存と同軸のものを感じるから、 
 人間に元々在った依存本能が多様化した結果でもあるのだろう。
 自分の内部にも在る、そういう部品は色々と薄汚れて疲れてもいる。
 そして自分にも在るものだからこそ、自身の依存性に無思考な人間に苛つくのだろう」
・・・という感じ。

でも、苛つくだけでは生産性が無い事も、重々承知の年頃。

何ものにも依存しない人間など、居ない。

「アタイは誰の世話にもなってやしやいヨ !  そこいらのゴーゴーガールと一緒にしてほしくないネ ! 」
と吠える輩でも、厳密には衣食住やらなんやらで、人間社会と無縁では居られない。

「いざ !  ザ・全裸っ ! ! 」と、ジャングル生活GO ! GO ! GO ! に挑んでも、
自然界の恩恵で糧を得ねばならぬ。

自立できている人格が、依存を認めながらも自律できているのは、
社会への働きかけが自覚できている事と無縁とは言えない。

社会人になるという事は、何かを為して代価を獲得する事を日常にする事だ。
糧を得る為には行動が必要という事を、身につけるという事だ。

それはとても当たり前の事なのだが、
できていない者ほど自身の依存性から目を背けて、糧だけを性急に望んでは失望する。

失望も恐れも依存も打開策すらも、
“自分を取り巻く社会の認知”に由来するという点は面白い。 

20040416/001196
『ガンダムは自ら助けない者を助けない』
不安が、宗教を成り立たせている。

傷つく事・失う事の不安、そしてそれが在った場合からの救済。
その手法として、ヒトより上位の存在を示すのは有効。手法として実に、効率が良い。

だが、自己の立ち位置を失速すると、依存度が高まってしまう。

福祉政策の対象となりながら、食費すらも削って体調を崩しながら、財産を失いながら、
部屋の中で新興宗教の仏壇だけが立派。
そんな人を幾人か、実際に見た。

何が対象であっても依存度が高まると、手段と目的の逆転が生じる。

過剰な自惚れを慎む為に、神などの上位存在を仮定して謙虚になる事は無為では無い。
だが、どれもこれも“○○サマのおかげ”としてしまっては、自分が無くなってしまう。

ここまでか自己努力、ここから先は運。 線引きは、信仰が在る程に難しい。
自己努力を認めれば認める程に、「信仰心が薄いのではないか?」という疑念が増大する。

この辺りを肯定する理論武装は、多種多様に研究されてきたのだろうけれど。
素人としては、「それやったら、最初から自分で ! 」となる部分だ。

単純で明らかな矛盾を内包しつつ、宗教が効率良い救済手法である事も現実。
“神”という巨大な虚構を大前提とするが故に、底なしに救済感を構築できるのだ。

ニーチェの言葉を借りなくとも・・・
“神”が人間による大発明であり、発明され続けなければならない理由はそこに在る。
 
この構造は、オタクフィールドでは更に業が深いものとなる。
“神”よりも虚構性が実感的である故に、かえって依存性が見え難くなっている面も在るからだ。

そこでは、奇妙な程に不安感すらも見え難い。
信仰が不安感を払拭するのではなく、快楽が不安感を先送りするからだ。

虚構とは、楽しみ活用するものである筈だ。
依存して、現実を損なっては本末転倒。

頼るのではなく、遊んでこそ、だ。


20040417/001197
『ガダムン電話相談室』
例えば・・・「ガンダムの何処がええのん?」という問い。

多透とて、ガンダムブーム以降、
やっと、ガンダムに限らずアニメ番組を全話視聴するという行為を覚えたりもした身。
もはや、そこまで時間を費やせない実情も在るが、
「好きだから好き」とか、言いたい部分とか、気分は解る。

だが、先の様な問掛けには、多重の罠が在る。

「好きだから」という漠然とした感情論しか述べられなければ、自己客観視能力を疑われる。
「リアルで細かい設定」とかを力説すれば、現実世界はどれだけ把握しているのか疑われる。

社会生活で普通に自立・自律できていれば、疑われっぱなしなんて事は無いのだが。
ガンダムを例えに出せば、ガンダムの範囲でしか考えないヤカラには、
無自覚のまま値踏みされるという辛い罠だ。

もっとも、そこまで無自覚に自己客観視から目を背けてオタクフィールドに依存していれば、
「何処がええのん?」という問いに解答を見つけられずに、立ち位置を自壊させる者すら居るだろう。

そういうフィールドの外側に立っていると確信できている人には、信じられないかも知れない。
だが、オタクフィールドでは、懐古の中にだけ思考を保留させる事が可能だし、
それを助長できる強化パーツとしての“商品”は、次々と増強され続けたりもするのだ。
 
映画館に、携帯電話の呼び出し音が鳴り響く。
小声で、通話までしてしまう。
携帯電話の持ち主が、見知った人間であったので、更に驚く。

普段から、「霊が ! 気が ! 」とか言う人だが、
映画館を一瞬に染めた観客全員の悪気には気付かなかった様だ。

観てた映画が『ホウリング・フォー・コロンバイン』だったせいも在って、
観客は怒りの投射対象に飢えていた所への“具体的登場”・・・
最前列に座っていた多透は、背後全体からの殺意さえ感じたのだが。

この例では、
「霊が ! 気が ! 」とか言う、異質なモノを感じようとする素養は持っていても、
社会常識的な“気配り”が失念されているという構造が在る。

どちらの例も、中学生ぐらいまでなら許される事例も在るだろうが。
三十路を過ぎて、無自覚なままで社会を生きてゆくには色々と難儀だ。

虚構は、現実認識の良き道具になる。
道具は、時間や距離の効率を上げる。

だからこそ・・・
面白いものを「面白い」と言える感性を、せっかくもっているのなら・・・
途中で思考や行動を止めてしまわずに、その先の面白さを楽しんでほしいと思う。
なにより、自分が、そうありたいと思っている身だから。

20040418/001198
『焼きソバのように生きてみないか?』
インスタント焼きソバ !

それは汁気が少ない故に、2個まとめ食いしても大丈夫。
だが、インスタント焼きソバ同士でも、
異なる商品の組み合わせによってはスーパー胸焼けする。

多くの物事では、異種交配が新たなる境地をもたらす事が多いのだが、
インスタント焼きソバに限っては、未だ人類にとって知られざる領域が在るのだ。

だが、不可思議な事に、
そのような行為を2度3度と続けた結果、胸焼けは生じなかった。

これは克服であるのか? 達観であるのか?
恋も2度目なら、少しは上手に立ち回れるという例のアレか?

だが、馴化がプラスに働くとは限らない。
積極的に見える人格の中といえども、変化を求め続ける部品だけが在るとは限らない。

手に入れた何かが心地よければ良い程に、それで満足してしまうのも道理。

オタクグッズを買い集め揃える事が目的化し過ぎてしまい、日常の思考がソレに支配されてしまったり。
教祖サマにお布施する事が目的化し過ぎてしまい、自分の生活さえ困窮してしまったり。

せっかく手に入れたもので、“その先”の思考が硬縮してしまうのなら、辛い事だ。
それでも、“本来の目標”を厳守できる意思力は、訓練を重ねていても常に維持できるとは限らない。

組織や役職が既得権に固執するあまり、自らの立場も危うくしてしまう例も多々在る。
人間は、目標のみならず、自らの立ち位置さえも、なかなか注視し続けるのは困難なのだ。

インスタントな物事に囲まれていると、時にピンチを招くのは、そういう論理機序が在るのかも知れない。
簡便に、手に入れば手に入る程に、“その先”も単純化した思考しか生じにくくなる。

それでも、我が眼前に、再びインスタント焼きソバは来るのだろう。

20040419/001199
『仮面日常Black』
インスタントな物事に囲まれていると、時にピンチを招くのは、無思考を加速するからだろう。

簡便に、手に入れば手に入る程に、“その先”も単純化した思考しか生じにくくなる。
それが、“どういう経緯で製造されてきたのか”さえ、どんどん無思考になってゆく。

オカルトに興味を持ち、スピリチュアルな物事を礼賛し、科学的な物事を毛嫌いし、
「世の中にはまだまだ人智の及ばぬ事が・・・」とヒステリックになる人程、科学を知らない。

我々は、電送機構を理解していなくともTV放送を楽しめる。
洗濯機を分解した事のある人間が、ひとつの町に幾人いるのだろう?
我々は、既に多くのブラックボックスに囲まれている。

しかも、日常を囲んでいるブラックボックス群は、単純に分解しただけでは機構が見えない。
微細加工技術の発達は、簡便さと引き換えに“理解の放棄”を要求してしまっている。

その“無知の知”に留意し続ける事さえ困難だ。
もはや、個人を囲むブラックボックスの数は、計測さえ困難であるからだ。

その為、スピリチュアルな物事を礼賛して科学的な物事を毛嫌いする人が、
ごく当たり前に都市生活を過ごし、科学的な物事に対する嫌悪感すら無自覚のままに、
交通機関や携帯電話を活用していたりするのだ。

そこには、“解らない事は無自覚”なくせに、
“いざ無知である事を知ると自己保護の為に否定する”という安易な選択が見える。

自分が知らない事は、宇宙中に無数に在る。
日常の中をゆくには、
“知るべき事”と“知らないままでいてもいい事”を取捨選択していかねばならない。

だが、当たり前に受けている恩恵を、理解以前に認識もせずに否定しつづければ、
損失が増す。

スピリチュアルな物事を礼賛しながらも、気配りが出来ていなかったり。
国家という機構を理解しようともせず、
「払っていない奴がいるから」と、税金の払い方さえ知らなかったり。
親の嘆きも諦めも自分の不安感さえも見ないフリで、三十路ダメオタク道を邁進したり。

インスタントな物事に囲まれていると、“理解の放棄”を処理する事さえ厄介になってしまう。

こういう構造は興味深く、それ故に面白い。

20040420/001200
『宝の山の下で指輪は』
オタクフィールドを振り返る様な話ばかりしていても、辛気くさい。
現状確認になっても、発展性があまり無いからだ。

自分の内に在る、虚構を楽しみたいという嗜好は霧散する事は無いだろう。
問題は、対となり基盤となる現実認識と具体的行動を、どれだ毛能動的に獲得していくかだ。
そんな事は、至極当たり前なのだが、当たり前が簡単とは限らないのも世の常。

社会生活の充実を実感しつつ虚構を楽しみたいのなら、やはり“後片付け”が重要。

あふれ出したオモチャ箱を見ないフリして、ひっくり返ったオモチャ箱さえも直さずに、
社会的空間たる居住空間が浸食される事に無頓着では、破綻が待つだけだ。

 
宝箱を宝箱として持ち続けたいなら、宝箱の整理整頓が必須。

チャキチャキいこう。

こんなページも作ってみたり。
http://tuskdaisakusen.hp.infoseek.co.jp/

20040421/001201
『ニシンが五百問』
駅前商店街で、ニシンそばを食す。
美味しいのだが、何故に京都でニシンなのか?

以前に行った北海道積丹岬近辺は、かつてニシン漁で大いに反映したそうだ。
それだけの需要と営利が在ったという事は、京都の高級嗜好にも合致していたのかも知れない。
もっと単純に、ニシンを最初に蕎麦に入れたのが京都商人だっただけなのかも知れないが。

乱獲や繁殖周期など様々な説が述べられつつ激減していた、北海道のニシン漁獲高。
だが、この2004年になって50年ぶりとも言われる大漁との事。
続々と、京都にも運ばれてくるのだろう。

伏見名物として、スズメの焼き鳥も在る。
国産と輸入物(主に中国)とでは、値段格差が在るのが面白い。国産が約1.5倍高価。
見た目が姿丸出しな丸焼きなので、今回は食さず。
振りかけられた山椒の味が濃くて、鳥肉の味はよく解り難いそうだ。
 
伏見稲荷の近くに、五百羅漢が在ると聞いたので同日散策。
京阪の鉄道沿いに1駅だが、楽に歩いて行ける距離。
山沿いに、墓地を通る様にして歩ける遊歩道も在るそうだが、
解り易い道という事で鉄道と平行に進んだ。すぐに案内板発見。

意外な程に早く、寺の門に辿り着く。

20040422/001202
『ラッカン的春是好日』
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)という、江戸時代中期の画家。
偶然にも、数週間前にNHKで特集番組をしていたので、多少なりとも予習済。
そのぶん、更に興味深く拝観する事が出来た。

拝観料を払って『石峰寺』に入ると、他に人影も無く、静かな空気が漂っていた。
晴天という事もあって、寂しさよりは落ち着いた空間を楽しめた。
昔から、墓地には出入りしていた事もあって、
無節操に不気味感を覚えたり、短絡的に恐怖や不快感を思考塗布しない様に心がけている。

在るものは在り、無いものは無い。
在る現実を見ようともせずに、無い虚構に依存しても、何も残らない。
 
伊藤若冲の作品では『鶏頭に蟷螂図』等の細密と大胆を併せ持つ気合いが好きだが、
石峰寺の五百羅漢石像は、実に素朴な味わいを持つものだ。

伊藤若冲が下絵を描き、石工職人に彫らせたとの事だが、
下絵制作にもかなりの精力を傾けたとの記録が在るそうで、それぞれの意向は良く結実しているのだろう。

単純に無邪気なだけの素朴さではなく、飛鳥の猿石などにも通ずる様な原始の味わいが在る。

この五百羅漢は、寺の火災などで倒れたりもした歴史を持ちつつ、再整備されて現在に至るという。

絵師、そして石工、そして経て来た長き時間・・・虚構も現実も内包した部分と全部。
もはや、何処までが設計で、何処までが彫刻で、何処までが風雨や時間によるものか、渾然一体。

そういう、人と時の為した物事を大切に思いたいし、感じ取れる人間で居たいと思うのだ。

20040423/001203
『バスーを待ちながら』
もはや、時間的にも空間的にも遠くなった1月3日。
午前5時半、起床。
早朝の沖縄県。西表島は、どんよりと曇っていた。
水の匂い。昨晩の大雨の残り香が、在る。

島で過ごすと、1日も経たないうちに、潮の匂いに慣れている事に気付く。
嗅覚の馴化と、吹き渡ってゆく風のせいか?
それは今までに訪れた島々でも感じた事だけれど、今回は奇妙に早かった様にも思う。
島の大きさと、森と川の匂いのせいもあるのだろう。面白い。

身の回りの物事には、慣れてしまうと面白くない事も多いのだけれど、
旅先の空気に馴染んでゆくのは心地よい。

2日続けて良き足となってくれた自転車を、もういちど見て、キャンプ場を出る。
小雨が降って来た。傘をさす程ではない。ここだけの匂いを探しつつ、坂道をゆく。

バス乗り場にゆくと、荒天の為に最寄りの航路は欠航との表示。
来た時と同じ事。
次の目的地である波照間島では、ゆっくりと着いてゆっくりと過ごせばいい。
予想はしていたので、慌てずにバスを待つ。
島の反対側まで、振替輸送してくれるのだ。

薄闇の中から、ひとり旅の女性が歩いて来る。
東京から来て、これから宮古島に渡るとの事。凄い移動距離だ。
彼女の方が移動時間余裕がシビア。飛行機の予定が在る。
ふたりでバスを待つ。

少しだけ強くなった雨の中、バスが来てくれる。
乗客は、我々も入れて3人。

夜の中を自転車で走った道を、朝に向けてバスが走る。
登りくだり、また登る。
港への道が見えて来る。
時計を見た彼女は、前の席から振り返り、間に合う予感に微笑む。

雨の朝は、夜との境界線が限りなく不明瞭だ。
旅先という偶然の匂いの中で、すれ違う我々もまた同じ。

20040424/001204
『毎日サーフィン連絡船』
7:40 バスで西表島の大原港に到着。
7:55 大原港を出航。乗客6人。
8:30 石垣島の離島桟橋に到着。 乗船券売り場へダッシュ。
8:35 諦めていた出発時刻だったが、ギリギリ間に合う。
9:30 波照間島に、到着。

石垣島から波照間島への航路は、かなり外海を行く。
その為、石垣・西表航路の数倍は振動が激しい。体感では25倍を超える。

珊瑚礁が在る為、船底が浅い。波の荒さも手伝って、かなりの浮遊感が楽しめる。
ジェットコースターでの上下動体感が、延々延々と連続する。

旅の未知感覚を阻害しない程度に、波照間島経験者のホームページを読ませてもらって予習はしていた。
幾人もの方々が、波照間航路の振動を異口同音に記されていたのだが、これほどとは。
これだから、実体験は面白い。

波しぶき覚悟で、後方デッキに座るツワモノもおられるそうだ。
しかし、それも天候が良ければの話。
気温は南国だが、荒々しい波は冬の海そのもの。安易な安心予測が通用する状況ではない。

船内座席に座っていてさえ、数秒ごとに振動で尻が浮き上がるのだ。しかも揺れのリズムは不規則に。
電車の様な規則性振動なら、慣れ易い。窓ガラスと座席を支点にして、居眠りも簡単だ。
だが、この船内で窓ガラスに頭部をもたれさせて眠ろうにも、頭突きが連発されてしまう。

酔い易い人なら、かなり危険な状況。
幸いにして満員ではないので、他の皆様を見習う。前部座席の背や隣の座席を利用して、居眠り。

居眠りといっても、熟睡困難。時折に見る船外の、空と海。曇天という事もあって、異邦感増大中。

2002年の正月旅行の帰り、小樽・敦賀魔のフェリーを思い出す。
大型船でさえ、廊下をまっすぐ歩けない程の振動。流石に冬の日本海。
フェリー内の風呂も危険な為に使用中止だった。
船内のビデオ室で、『パーフェクトストーム』を観たりもしたが。

記憶は、新規更新していってこそ、面白い。
脳内に投射される記憶断片と、網膜に来る眼前の光景。
混じり合いながらも、南の島が見えて来る。

小雨が止みつつある中、先刻までの振動が幻かの様な・・・のどかな波照間島に到着。

20040425/001205
『ランゲルプリン島』
波照間島での宿として、『みのる荘』に予約させてもらっていた。
港から宿まで送迎してくれる車が来てくれていたので、早速に乗せていただく。
他の民宿からも幾台か、車が出ている。
地図上では、僅かな距離なのだ、が。

これは、波照間島の地形に理由がある。
島外縁の大半は断崖や磯で、砂浜は一部のみ。そんな島の土台に、台地が重なっている。
例えるなら、皿の上に巨大なプリンが乗っている感じの地形。
登ってしまえば平坦な土地が広がっているのだが、外縁部からは必ず急坂を登る事になる。
予習はしていたが、実際に見てみると結構な急勾配。
興味深く、そして体験し甲斐の在る地形だ。
これは面白い。

波照間島の位置は、東経123度42分12秒・北緯24度2分24秒。
面積は、12.77平方km。島外周は、14.80km。人口は、2003年4月調査時点で587人。

曇ってはいたが、進む秒ごとに雨は止んでゆく。
あっけらかんと、ただ当たり前に緩やかに空間が広がっている。
珍しい地形であるのに、実に島らしい島であるとも感じられる。

20040426/001206
『衝撃 ! わたしはハテルマ星人を見た ! 』
『みのる荘』でレンタサイクルを借りて、早速に散策へ。
自転車で少し進むだけで、島の人家が中央部に集中している事が伝わって来る。
集落の中央部には、公民館。竹富町役場の波照間出張所も兼ねる。

広大なサトウキビ畑の横を走っていると、スピーカー音声が聞こえた。
島外縁の荒々しい地形と比べて、島上部は平坦なので確実に音が伝わって来る。
この島では、実に効率的な公共告知機能だ。
 
2004年1月3日。連絡船の中で、幾人かの晴れ着姿の女の子が一緒だった。
石垣島や沖縄本島や九州からの正月里帰りかとも、思っていたが。

離島や地方都市では、中学校卒業時に故郷から離れて進学や就職する事が一般的。
ここ波照間島でも、学校は中学までしかない。

その為、より帰郷し易い正月に成人式を行う土地は多い。
文章やTVニュースなどで見聞きした事は在ったが、旅の中で遭遇できるとは思ってなかった。

「午後より成人式を公民館でとりおこないますので、島民の皆様は、
 何か一品ご持参でおこしください」

あぁ、そうか・・・
これが人の連なりで、繋がりだという事が、ふわりと解った。

皮膚で、解る感じ。
呼吸した何かが、肺胞から全身血管へ、スルスルと染み込んでゆく感覚。
そういうリズムで記憶に記載される種類の、物事。

「そういう瞬間が訪れるから、旅さは素晴らしい」と言うよりも前に、
自分の様な覚えの悪い人間が成人してゆく為には、そういう瞬間の体感積層が必要なのだ。

20040427/001207
『無境界公園』
波照間島を、自転車で走り出す。
島中央部集落から離れると、島内一周道路が在る。
荒々しい磯場が広がっている場所が多い島外縁部地形の為、海岸線を走れるという訳ではないが、
見通しが良く走り易い快適な道だ。
島内部の道も勿論良いのだが、島内一周道路はかなり気に入ってしまった次第。
1泊2日な約26時間中に、3周させてもらった。

まずは、“島は左回りの法則”に従って左回りに進む。人影は無い。
石灰岩を採っているらしい工事現場もを通り過ぎるが、そこにも誰も居ない。
考えれば、正月期なので当たり前だが。

地図に記されている『ぶりぶち公園』を目指・・・したが、見つからない。
ぐるりと見回して・・・やっと気付いたのは、もはや草木に覆われた“元”公園の様なものだった。
大阪だと“行政の管理不十分”とか“税金無駄遣い”とか問題になりそうだが。
この波照間島だと、柵で囲まなくとも既に自然公園的景観。
人工的に区切られた公園が、本来の自然に覆い戻されている様で面白い。


『シムスケー』にも、辿り着く。
かつて、この島が干ばつにみまわれた際も水を絶やさずにいてくれたという古井戸だ。
今では中央部の集落から離れているが、かつては何軒かの家々も在ったのだろう。
大樹のざわめきを聞きながら、時間を感じてもみる。


20040428/001208
『ハテルマータ』
曇空だが、暗くはない。夏の予感のゼンマイが巻かれてゆく様な、来る様な暑さが染みて来る。

西表島でも遭遇したが、
それよりも更に広大な、さとうきび畑を初めて見る。

なるほど、“ざわわ、ざわわ”と歌う様な音がする。
2mから3mもの高さで、天に伸びる。
それぞれの素直な直線と、畑総体としての存在感。

緑色直方体の間をゆく蟻になった自分を、夢想する。

まっすぐな道が在る。
地平線を抱く様な遠景ではないが、すぐに終わる短冊ではない。

道それぞれは、縦・横・斜め様々に交差して様々な地点を繋いでいる。

独りであるという感覚も良いのだが、
登りゆく坂道の上に懐かしい彼女が現れる夢想と、現実の境界が曖昧になる一瞬。
そういう一瞬を普通に用意してしまう様な、静けさと広がりが在る。

音楽記号の延長記号に、フェルマータが在る。
イタリア語では休止や停留所という意味も在るそうだ。

波照間島では、何か不意な程に、その言葉を思い出したりもした。


20040429/001209
『迷路の向こうに水砂』
“島最南端”は、後の楽しみにして、“最南端の浜”を目指す。
まずは、その海水に、触れてみたかったからだ。

島内一周道路は、島南部になると結構内側を通る事になる。
その外側に、更に同心方向に何重かの農道が在り、それと交差する放射状の道も。

同じ様な地形が、位置特定を惑わせる。ここは何処か?

農作業に来られていた高齢女性に、たまたま出会う。
無礼にならない様、自転車を降りて道を尋ねる。
おばぁ(敬称)は、親切かつ的確に教えてくれた。
今回の旅でも、幾人もの方々と話は出来たが、沖縄の呼吸はやはり柔らかい。

野趣あふれる自然林でも在りながら、防風林としても機能している樹々の間に、
注意しないと見逃してしまいそうな道が存在している。
心地よい迷路を抜けてゆくような感覚で、進む。

其処は、海だ。


波照間島における“島最南端”と“最南端の浜”は異なる。
“島最南端”が異世界感あふれる荒々しい広大な岩場なのに対して、
“最南端の浜”は静謐な安定に満ちている。

砂浜の、ゆるやかな太陽温。きめ細かい砂が、熱を貯めている。

砂浜を所々で覆うのは、樹々や岩場。
それら不規則に見えながらも、
実は、風雨や潮や年月により自然によって配置されてきた理由が在る。

近景の海には、珊瑚礁が在る。
それ故に、遠くまでも海中に在る白い珊瑚は見える。
それなのに、水平線の彼方には、何も見えない。
奇妙で心地よい距離感だ。

二十代の男女が、浜を訪れる。
場所を譲る気持ちもあり、次の場所を目指す。
この日の旅行者では、おそらくただ1組のカップルの様だった。

20040430/001210
『最南端彼岸』
訪れた旅行者カップルに気付かれない様、しばし黙祷して去る。
愚劣な殺人者により、犠牲になった女性キャンパーに。

加害者も犠牲者も、旅行者であった事が更に不幸を拡大している。
波照間島のみならず、八重山諸島では規定場所以外のキャンプは厳禁となった。

“最南端の浜”に至る道さえ解り難いほどに、この島には観光地化されていない魅力が在る。
それは、島という限定空間で正当に生活されている方々が居られる証拠でも在る。
町の中で限定された個人所有空間に慣れてしまった身には、解り難いほどに、島の人は島全体で住んでいる。

自宅の庭先で野宿されたり、火を使われたり、ゴミを捨てていかれたりする事を好む人は居ないだろう。
それ故に、指定場所以外でのキャンプ禁止は納得できる。
ただ、不幸な事件が、その最終判断材料になってしまった事は、残念だ。

そういう事が在った場所に行くと話すと、霊的な話題にもっていこうとする人は結構多い。
しかし多くの場合、どうにも思考焦点が合わないと感じる相手が多いのも、実感。

安逸に「霊が ! 気が ! 」と思考を満杯にしてしまう人ほど、実は、死を見ようとしていない。

人類の歴史で、太古から住人が居た地は多い。
ヒトが棲息し易い地形や地域は確実に存在し、それ故にヒトの棲息・移動範囲の歴史は見えてくる。

通常に我々が移動し棲息できる範囲で、“誰ひとり死ななかった場所”など、実に少ないのだ。

事件や事故や、戦争までも、多くの場所で既に在る。これからも、在る。

「心霊スポットに行って、霊気を浴びてくるよ」なんて言う人に、幾人か会った事があるのだが・・・
その土地さえも大きく取り巻く、死の歴史を見ようともしていない様に感じる人が大半だった。

たとえば、阪神・淡路大震災での犠牲者数を考えようともせず、
被害地域内で昔からの古いネタにされている“心霊スポット”に、わざわざ足を運んだりするのだ。

安易に霊魂の実在を妄信したり、それで思考や行動を振り回されたり縛られたりする人は、
どうにも、正面から死を見ようとしていない様に感じる。

まず、実証できる物事を把握し、認識の上で死者を悼む事。
その方が、無作法に不可知な物事を妄信するよりもずっと、命に対して真摯であると思うのだ。

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